月酔い
びしゃりと音がしてそれから視界が滲んだ。
アルコール特有の清潔で刺すような香りにまかれて、
滴る視界の奥で男達が笑っている。
「屈辱かい」
頭上からかけられた酒の効果は俺を辱める為のものだったのか、と思ってみても。
答える言葉がしばらくどこかで彷徨った。
正解と思われる言葉は探しても出てこなかったから、正直に言った。
「実は、アルコールの匂いは、嫌いじゃない」
男が目を見開いた。
例えば唇を歪めて、屈辱に打ち震えればよかったのかもしれない。
だがそのとき、俺はそんなことが出来るほど可愛らしい精神状態じゃなかった。
もっと違うことで頭の中が一杯だった。
「ああ、でも」
滴る髪の雫が床を染めた。
「ビールじゃなくて、良かったかなと考えてました。ほら、あれは髪を染めてしまうというから」
この黒い髪は両親が俺に与えた色だ。
切りそろえた首筋の髪が冷えていく。
長い髪をくくった姿を可愛いと揶揄する声がなくなっても、こういう宴は終わらない。
頬から唇へ流れた雫を品のない仕草で舐めとると男達が笑うのをやめた。
俺はこの次に何をすべきか、何をされるのかということよりももっと違うことが気になっていた。
魂が震えるほど、強い男に逢った。
それから頭の中がその男で一杯だ。
寝ても覚めても。
息をするだけで蘇る錯覚。
知り尽くした殺戮の前の高揚。
あの男のことを知りたい。
あの目、あの声、あの強さが欲しい。
獰猛な感情と湧き上がるこれは多分純粋な欲情。
ああだから目の前の瑣末なことなどにどうしてどうして構ってなどいられる?
時間が足りない。
組織は動き出したばかり。
よちよち歩きの幼子を本当の男にしなけりゃならねェんだ。
そうだ、あいつらはまだほんの子ども。
親の庇護が必要だ。
邪魔だ邪魔だ。
その首そのうち落としてやるから。
暇つぶしなら他所でやってくれないか。
嗚呼、馬鹿馬鹿しい時間が足りないんだ。
こうしている間も。
笑ってしまった俺に男達がざわめく。
時間が足りない。
頭の中はさらに違うことで一杯。
満たされたい。
あの男の殺気にあてられて狂うような夢が見たい。
そう、いっそあの首を落としてしまいたい、なんて。
出来もしない。
力量の差が嬉しい。
刀を磨いて、よく似た銀色の刀身であの首を。
あの首を落としたら大事に飾っておこう。
きっと血に映える。
あの懐かしい色。
ああ、そうか、なつかしい色だと思ったのは。
あの男の髪は刃の輝き。
焦がれた色。
血に映える色。
ああ、欲しい欲しいと胸の内がざわざわざわめく。
狂ってしまうかもしれない。
こんな風じゃ頭がイカレてしまいそうだ。
寝ても覚めてもあのときの邂逅が廻る。
だから。
「もういいですか?」
なぁ、もう次の話にしないか。
つまらないんだ、何もかも。
ああ、ちっとも心が動かない。
床が染まっていく。
これが血ならば鮮やかだろうか。
あの男の流した血。
俺が流させた血。
舐めておけばよかった、きっとそうすればもっと頭が可笑しくなって夢が気持ちいい。
早く逢いたい。
ああ、笑いだしたい。
だってなぁ。
逢いたいなんて思うのは俺だけで、きっと蛇蝎のように忌み嫌われている。
それで構わない。
これから組織の為に外道になると決めている。
「さぁ、面倒ごとは早く済ませたいんです」
はやくはやくはやく。
振り返ってる時間はねェんだ。
放りだされた夜の淵、秘密裏の酒宴に迎えなどいやしない。
咽返る酒精に含み笑い。
くらくら頭の中が燃え上がる。
……きりきりきりきり、小さな音がして。
生暖かい風がふわりと土方の横を通り過ぎてまた折り返す。
「もうし……」
振り返らずとも横並び。
歩みをとめることもない。
ふいに覗き込まれるが。
「…酒精と戯れるにしちゃ、随分と強い目をしておいでだねェ」
かけられた声は宙を舞う。
「………」
土方はぞっとする流し目で相手を見やる。
凄絶な色香が燻ったままの視線に、
闇夜に輪郭を持たない生き物が息を飲む気配だけがするが、土方は構わず歩き出す。
ぞろりと、ついてくる足音。
滴る水の音。
「ぁあ……いい匂い」
いつのまにか生き物の舌がゆっくり土方の身体を這った。
じわりじわりと、真綿に締め上げられながら、緩やかにすべてで愛撫され。
どうせ、今日は帰れない。
「酒の匂いに咽そうだ」
自嘲気味にそれだけ呟くと土方は目を閉じた。
景色は違った。
人影は無い。
目を開く意味も無い。
朝に返してくれりゃいい。
あはははははは、夜道に化け物の哂いが響く。
負けじと、心の奥底で高らかな笑い声を。
あはははははははははは、ああ。
なんとでも、どうとでもすりゃいい。
どうせ、この身は朽ち果てる。
人も獣もそうでないのも。
せいぜい俺で退屈を凌げ。
こんな身など、くれてやる。
夜に叫び、狂い笑いと淫靡な声が漏れてすら。
色も欲も畢竟、土方の知らない世界の話。
ただ、一途に。
逢いたい男の顔だけ浮かべて、闇に沈んだ。
2011/07/23
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