展翅板の憂鬱






私はいつだって紳士だっただろう?
嘘。
嘘嘘嘘。
白い指先がシーツにを歪な弧をえがく。
あとずさる足先を捕らえられてまるで獲物のように怯えた眼差し。
煽るつもりのないことが最も相手を煽ることを知らないほどには初心で清廉な。
笑みを見せたがそれは相手に笑みと映らなかったようだ。
泣くのだろうかと思われた瞳は、見開かれたまま凍りついた。
古い古い記憶だ。
「私は常に真摯だっただろう」
窓際に立つ相手に戯れに話しかける。
「ジェントル、という意味での?」
「いや、誠実に似た言葉のほうだよ」
土方は喉で笑った後、ゆっくりと窓の外を見た。
「あなたは嘘つきだ」
そう言いながら窓硝子に長い指を滑らせた。
ただそれだけ。
その程度の動きで誘われるのだから恐ろしい。
この生き物はいつかすべてを手に入れるのだろう。
この相手は自分を恐れなくなった。
それが良い事だと思っていたのは昨日までだ。
羽化した蝶はするりとこの手から飛び立ってしまう。

蝶が退出した後の部屋はしんと静まり返って恐ろしく寒々しい。





私の「蝶」が花から花へ飛び回っていると知らされたのは昨日のことだ。
以前から私に好意的な若い男がそう告げたが、齎す効果は芳しくないとわかっているのだろうか。
告げ口とはまた小賢しいオンナのようだ。
だがオンナなら可愛げがあるそれも下心のある男では興ざめだ。
元々私には自分と同じ性の生き物を抱く趣味は無い。
若い女にすら大した興味を覚えない。
大概が世間知らずで馬鹿だからだ。眺めて楽しむくらいが良い。
蝶だけが特別で他の男には残念ながら何の魅力も感じないと伝えるのは傲慢だが簡単だろう。
が、面倒なのでやめた。





ロビーで蝶のお気に入りの部下が影のようにひっそりと佇んでいるのが目に留まって話しかける。
相変わらず恐ろしく気配が薄い。
極秘任務の遂行にこれほど適したタイプも少ないだろう。
「蝶は花から花へ飛び回るものなんだったね」
突然の問いかけにも僅かも動揺を見せない辺りは恐ろしく度胸がある。
「……誰かが貴方に何か言ったんですね」
品のいい笑みを絶やさないこの男の眼の奥が笑っていないことに一体何人の人間が気付いているのだろう。
「ご親切にもね」
「貴方が悪い男だからじゃないですか」
「私ほど誠実な男はそういないよ」
「貴方が本当に誠実なら、その相手に感謝すれば良いじゃないですか」
「純粋に部下として進言してくれたのならありがたく受け取るよ。私は嫌われているから
そういった好意は得がたいと知っているしね」
「純粋に部下として進言してもらえないのは貴方が後ろ暗いことをしているからじゃないんですか」
「おや、君は君の最愛の上司も悪者にするのかな」
「貴方が全部悪いんです。あの人は何にも悪くありません」
「……まぁそうだろうね」
「地獄に堕ちるならお一人でどうぞ」
「寂しいからあの子を連れて行きたいんだけれどね」
「駄目です。その媚売った色小姓でも連れて行ってやれば良いじゃないですか」
「ふむ。さすがに相手の見当までついているとはあの子が可愛がるだけのことはあるね」
「……あの人と一緒の時に物凄い目で睨まれましたから、念のため」
「調べたのか」
「貴方が胡坐かいてるからですよ。血迷ってあの人に何かする害虫は駆除する必要がありますから。
ご自分がどれだけ『偉い男』かご存知でしょうに」
「断っておくが私にはそういう趣味は無いよ」
「知ってます。あの人だけが特別だと仰りたいんでしょう?」
それから目の前の男は少し皮肉な顔をした。
「残念ながら同じこと言う人結構いますよ。あの人凄く美人ですから」
「じゃあやはり悪いのはあの子じゃないかな」
「そうだとしても地獄にはお一人でどうぞ。それに貴方があの人の良くない噂を貰ったなら、
あの人だってきっと貴方の悪い噂をもらってますよ」
にっこりと笑って失礼極まりないことを平気で口にする。
「どういう意味かな」
「貴方の素行の悪さは有名ですからね。貴方はファンが多いでしょうけど、あの人だって負けずに多いですから。
それに…あの人のファンは貴方のと違って必死で強い男ばかりですから、
貴方そのうち刺されるかもしれませんね」

「………用心しておく」








「ああ、もう戻ってきますね」
声のトーンが嬉しげに上がって、視線の先で確かに土方が歩いてくるのが見えた。
まるで尾を振る犬だ。
だがそれはもういい。
お気に入りの蝶はこうしてみると改めて美しいのだと知れる。
神が特別目をかけて創りあげたのだろう、人目を惹くすらりと長い手足に白い肌と完璧な造形の顔。
隙無く着こなされた漆黒の衣服に包まれた身体は女は勿論、男の目から見ても申し分無いだろう。
上官の呼ぶ声に振り返ると、艶やかな髪が主の頬に従順に寄り添う。
その一連の流れが美しいのにまた驚いた。
噂に名高い真選組の美貌の副官には、煩わしいほどの視線が纏わりつく。
不可視の糸を無言のまま裁断するしたたかな笑み。
おおよそすべての愚かな男と同じく、自分が騙されているとしても腹も立たない。
ただあの美しい蝶を汚すものが赦せないだけだ。
己に言い訳をする。
自分以外の何者かが、と付け足すべきだ。
私以外に足を開かないでくれ、と言えば逃げられる。
いつから自分はこんなにも愚かになったのだろう。

私の蝶、いや「私のものだった」蝶。
権力を手にするまでに数々の辛酸を舐めてきたが、手に入れてしまえば何のことも無い。
退屈な日々に彩を添えるに相応しい「お気に入りの蝶」に、思うよりずっと入れあげていると
自覚したのは少し前。
逢瀬は蝶の機嫌を伺うことから始まるのだから、もっと早く気づいても良かったほどだ。
視線一つで部下を震え上がらせる私が、ただ一人の人間の機嫌を取る事に躍起になっているのだ。
端から見れば滑稽以外の何ものでもないだろう。

蝶の不義理を責めることは簡単だ。
が、私とて清廉潔白な身体ではない。
女性との付き合いはある程度の地位にある人間には不可欠な物だ。
男は君だけだと言っても、恐らく赦されないだろう。
どうやって機嫌をとればいいのか。
以前から頭が痛いのだ。


そして、蝶に群がる雄の殺し方など知らない。




蝶のお気に入りの地味な犬は恐ろしく嗅覚が鋭いのだろう。
予言が当たる辺りあの子に関してあの犬ほど鋭いものもいないのかもしれない。
執務室の豪奢な革張りの椅子に身体を沈めたまま、考える。
机を挟んで立つ相手の階級は自分より少なくとも5つ下だ。
歳もおそらく二まわり違う。
ようはヒヨっ子だ。
目の前の若造に何を言うか、巧い言葉は思いつかなかった。
若造は挑発的な視線でこちらを睨みつける。
まるで盛りのついた雄の獣だ。
あの子の「ファン」はなるほど、私に媚を売るタイプと違ってその気になれば私を
刺し殺そうとしそうに屈強ではある。
「…貴方に、あの人のことを束縛する権利なんて無いと思うのですが」
あの人、というのがたった一人を指すことは理解している。
しらばっくれても良かったのだが、生憎とこちらも生来の強情なのだ。
辛うじて敬語なのは此方の地位がどれほどのものか深層で理解しているからだろう。
あまり弱い者苛めのような真似はしたくないが、売られた喧嘩は買わなくてはならない。
気は進まないが、私の可愛い蝶に関することなのだから仕方ない。
「貴方の側には沢山の女性がいるでしょう。皆言ってますからね。
…あの人だってそれは知っているはずだ」
そうだろうね。
噂は娯楽だ。
特にそれが自分に関係の無い場でなされるという一点さえ護れば、
怪我が少ない遊びで、他人への小さな武器にさえなる。
「あの子の気を惹く為に皆随分私の悪口を言ってるんだろう?」
笑いを織り交ぜて告げたが、若造は肩を怒らせた。
「あの人だけを愛していないくせに、あの人を束縛するなんて傲慢です。俺は貴方を軽蔑している」
軽蔑。
これには驚いた。
私が幾人もの女と関係を持っていることを、まさか蝶にではなく他所の馬の骨に咎められる
とは思わなかった。
可愛い蝶が言い募ってきたなら、持てる言葉を駆使して機嫌をとったものを。
その手間すら楽しいと思えたのに。
今はただ腹立たしいのみで、興ざめだ。
私の可愛い蝶は何も言いはしない。
人の恋路を邪魔すれば、どうなるか知らないのか若造。
「貴方はあの人に相応しくない」
「では自分ならば相応しいと?それこそ君が言う『男の傲慢さ』ではないのかな」
笑いかけると怒りと羞恥のためか顔が赤くなる。
「さて…、言いたいことは終わりかな」
行儀悪く足を組みかえると直立不動だった若造がびくりと震えた。
恐怖のうえではないだろうが。
「俺が好きなのはあの人だけです。俺にはあの人だけ、です。貴方と違って」
生意気な雄の目をした男は感情の制御が出来ていないのか、震えている。
なかなか痛いところを突くじゃないか。
「俺があの人を好きなのだって……貴方にとやかく言われることじゃない。あの人は俺の気持ちを邪険に
なんてしませんでした…やさしいから」
ふむ。
それはその通り。
この時代にあって恋は自由だ。
そしてあの子が慈悲深いのも知っているよ。
「……貴方は卑怯だ」
卑怯?私が?
「地位や権力で、好きな人を言いなりにするなんて、男として最も恥ずべき行為ではありませんか」
笑わせる。
ではお前が私の立場なら、同じ事をしなかったと言えるのか?
あの美しい蝶を何としても手の内に納めておきたいと思えば、多少の無理は致し方ない。
籠に入れてから、愛をゆっくりと囁いて赦しを請えば良いのだから。
愛の前なら大抵の無理は通ると知っていないんだな。
失うものなど殆ど持ち合わせていない、向こう見ずで恋に溺れた思慮の浅いガキだから、
お前はあの子だけを愛しているなどと言えるのだ。
だが、ああ、その若い愚かさと傲慢さが僅かばかり羨ましくもある。
弁解をさせてもらえるのなら言うが、あの子は言いなりになどなっていない。
なにひとつ。
「貴方みたいな偉い男に力づくで迫られたら、あの人が可哀想だ…あの人は本当に純粋で優しいから、
組織を盾に取られたらどんなにつらくても最後には言いなりになるでしょう」
若造は痛ましげに顔を歪めた。
まるで見てきたような口を利くじゃないか。
私とあの子が世間にどう映っているか、わざわざ知らせてくれたのか。
だが可哀想なのは私のほうだ。
あの子が私の望みをきいてくれた事など一度としてない。
あの子の望みをかなえなかったことなど一度としてないのに。
跪いて足に口付けを落とせと言われれば、
今なら間違い無くしてしまうような愚かな男が可哀想でないなら、
私はどうしたら良いのだろう。
教えてくれないか、小僧。
笑い出したいのを堪えながら目の前の若造を見やる。
屈強な体躯となかなか整った顔立ちで、利発そうでもある。
なるほど身の程知らずに蝶に言い寄るだけのことはある。
が、恋の前にはただの馬鹿だ。

私以上の馬鹿など居はしないが。

「蝶が花へ降り立つのは、蜜があると知っているからだ」
何を言っている、という表情の若造に噛んで含めるように言い聞かせてやる義理は無い。
覚えておけ小僧。
権力という蜜が、なぜあんなにも好まれるのかを。
私があの子に選ばれるのは私が「偉い男」という馬鹿げた、だがある側面においては
絶対的な強者だからだ。
あの子が欲しがるものを差し出すには、お前はまだ頭とチカラが足りない。
「私があの子を捕らえているのではなく、あの子がお前を選ばないだけだよ」
貫く言葉の刃は何よりも辛らつでなければならない。
肉ごとその欲を切り裂いて息の根を止めてしまうように。
同じ蝶を欲しがる雄とはいえ、こんな小僧相手に大人気ないとわかっていてもやめない。

ああやはり私は地獄に堕ちるな。







先ほどのやりとりを露ほども匂わせないで、招き入れた蝶に笑いかけた。
警戒心の塊のような蝶を懐柔する取って置きの笑顔で。
蝶は室内をぐるりと見回すと、定位置となっているソファに座る。
蝶の為だけに用意しているブレンドの珈琲を手ずから淹れてやると、香りが気に入っている
と以前言ったように目を細めた。
俯く蝶は鋭い瞳を少しだけ伸びた髪で隠してしまっている。
切らせたいが、切るのは彼の部下の仕事と聞いているから触ってみるくらいしかしない。
なるだけ優しく触れると蝶は僅かに笑った。
「切らないのかい、少し長いよ」
「忙しくて忘れてました」
「君さえ良かったら今すぐにでも」
人を呼ぶが、といいかけたが笑みで制される。
「ショックで可愛い部下が拗ねたら困るので」
「君は髪も売約済みなんだね」
つい、織り交ぜた嫉妬交じりの皮肉も蝶には通用しないようだ。
「ええ、明日あたり切らせます」
顔色ひとつ変わらないのが憎くもあるがやはり愛しい。


「昼に、ひとりお邪魔しましたね?」
蝶はそう言うと、カップにおとしていた視線をあげ、私を上目に見た。
「さて、そういえばそんなこともあったな。
…小さな獣でね、噛み付かれてしまったよ」
「痛いですか」
「それはね。でも君が舐めてくれるなら治るよ」
蝶は喉で笑う。
「じゃあもう少し痛がっておいてください」
「冷たいじゃないか。君の飼い犬なんだろう」
「俺の狗は屯所に一匹いる地味なやつだけです。あれが一番有能で可愛い」
「じゃあ昼間の派手な犬は殺しても構わないのかな」
「無益な殺生は地獄に堕ちるのが早まりますよ」
「手厳しいね。だが躾のなっていない犬は叩かなくては良くないだろう」
「愛情がなければただの虐待ですよ」
「君は愛を持って叩いてるのか」
「……秘密です」

あの若い男は君だけを愛しているといっていた。
私とて君を愛している。
あの男には無いもので君を楽しませることが出来る。
権力という蜜は何も年老いたものの虚栄心や男の我欲の為だけにあるわけではない。
花は健気に蜜を作って蝶の訪れをただ待つだけなのだ。
私とて、動けぬ健気な花に成り下がっているのに、どうしてあんな小僧に情けをかけねばならない?

しかし、土方。
君が望むなら君の思いのままにしよう。
私が君の望みならば何一つ叶えなかったことなどないように。

「わかった、昼の無礼は忘れよう」
土方は首を少し傾げた。
「こんなことくらいで君に代価を求めたりしないよ。君の犬じゃないのなら、
助けたのは博愛であって、それは人間にはつきものの情けというものだからね」
蝶は美しい睫を二度振るわせると、カップを静かにテーブルに置く。
「ああでも、君がどうしてもと言うなら、好きにしてくれて構わないんだよ」
言うと蝶は笑って身を乗り出してきた。
素直に柔らかな唇を受け止めながら、羽をピンで留めてしまいたいと残虐なことを思う。
逃がさないように腕の中に抱き込んでも抗いはしない。
心の中まで抱きとめて留めることなど不可能だ。
不義を責めてしまっても、恐らく何もならない。
負けが決まった勝負では、傷を少しでも少なくする他、打てる手は無い。
撤退という手段が使えない以上、出来る事はそのくらいだ。
「もう仕事はおしまいだろう?良かったら我が家に君を招待したいが」

さて、手始めに私の誠意をお見せするとしようか。
しばらくは飛び回るオイタを控えてもらうために。
欲しがっていた玩具を買い与える約束と一緒に、
君が欲しがる強さとやらがこの世にあるならすぐにでも差し出してやりたいところだが。
見当たらないのでとびきり高価な玩具を買ってあげよう。
今断ったら君の大切な組織を滅茶苦茶に壊して、
君の事は裸で一日中部屋に繋いでしまうよ。


ほら、やはり恋は人を愚かにさせる。
だがもういい。
月だって取りにいってみせようじゃないか。
そのときは誰より愛していると言って、強く抱きしめてくれなけりゃ悲しくて死んでしまうよ。
いい大人にだって甘やかして欲しいことくらいあるんだ。







薔薇の花びらが落ちる音で眼が覚めた。
花瓶に零れおちそうに活けられていた花が自身の鮮やかな色の重さに耐えかねるように
ひらりひらりと零れて紅く綺麗だ。
軽く伸びをして予想通り一人きりだった部屋に笑う。
昔の夢を見ていた、がどんな夢だったかは思い出せない。
きっと怖い夢だ。
嫌な夢ばかり見続ける。
夢の中も外も闇の色に似て恐ろしい。
それでもここはあたたかくて居心地がいいから、よく眠りにいってしまう。
いい匂いのする寝具に顔をうずめて違う夢を見ようと思った。

まだ主はやってこない。

こんな広くて寂しい部屋に俺を置いて何が愛しているだ。
嘘つきは地獄に堕ちるのが早まるって何度も教えてやったってのに。
精々飽きるまで楽しませてくれなけりゃもう顔も見せてやらねェ。
どうせ、誰も俺の事なんか本気で愛していないんだろ。


だって、まだ誰も扉を叩かない。









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