河上の勧めで、ときどきは育った院に顔を出す。
院長は優しいひとだ。
そして哀しいひとだ。

「おかえりなさい。十四郎」
誰かにおかえりなさい、と言ってもらえる幸福をよく知っている。
晋助にもその幸福を差し出したくて、いつも言う。
返事が返ってこなかったのは最初だけ。
あんな可愛い顔で驚いた大人の晋助を見たのはもしかしたら俺が最初かもしれない。
こどものころはきっとああいう可愛い顔で驚いたんだろうと思う。
逢いたいな。
多分俺じゃなにも変えられなくて、晋助はやっぱり哀しいままなんだろうからこれは俺の望みであって晋
助の救いじゃない。
誰かを救うのはとてもとても難しい。

「救いたい人が救われたがっていないとしたらそのひとには永遠に救いが訪れないのでしょうか」

「私には、貴方に、救いたいと思う人が現れたことがまず、嬉しいです」
「ありがとうございます。せんせい」
「十四郎、もう少しよくお顔を見せてください」
「はい」

院長はとても優しい顔で俺を見た後、俺の髪を撫でた。
晋助がするときに似た、手の動き。

「大きくなって…」

院長はそれからしばらく、俺の顔をじっと見て、微笑んだ。

「あまり、気を使わなくて良いのですよ」
寄付のことを言っているのだろう。
でも、それはここに必要なものだ。
晋助が俺の望みを叶えてくれた。
「高杉様には私からよくお礼を言っておきます。貴方はまだこどもなのですから、あまりそういったことに
気を回さなくて良いのですよ」
そうだろうか。
生れ落ちた瞬間から既に戒律は組み込まれ、細胞の一つすら呼吸を赦されないかもしれないのに?
生きていくには必要なことが沢山ある。
人生の最終目標は勿論生きることだとパルツァーもうたった。
せんせい。
哀しい大人ばかりなんで俺の前に居るのか教えてくださいませんか。



(かなしいおとなばかりどうしておれのまわりにはいるのでしょうか)

ガキの頃はよくそう思っていた。



過去を繋ぐものがあるのならばそれはただの感傷。



「河上、もしも高杉を愛しているのなら」

午後のお茶に甘い苺ジャムとスコーン。
湯気の向こうで曖昧な笑み。
指先が何もつけずにそれを持ち上げた。

「いまここで俺を殺しておくべきだ」

さくり、と軽やかな音がして唇に吸い込まれた。

「それは晋助を、殺す事と同じでござるよ」

深く根を張ってしまった想いを断ち切れば肉ごと抜け落ちてしまう。
あの細い骨のうちから肉をそぎ落として命が繋がるわけも無く。
わかっていて言っているのかアリス。
何の冗談か。
悪い子だ。

「はい、あーん」
差し出されて黙って口を開けた。
アリスはときどき戯れをする。
毒が入っていればここでオシマイ。

“And that’s all”

でもそれでいい。
醜く罵りあうより、湯気の向こうで笑う美しい顔を眺めて毒が回るまで酩酊すれば良い。
ティーカップごしに選べばいい、命を。
アリス。
生き残る事が幸福なのかは知らないが。
恋煩いの女はみんなこの方法で諦めとさよならを繰り返したら美しい。

ああ、いい曲が書けそうでござるな。


「じゃあ、これから先俺がすることをただ黙ってみているか」

跪いて聞くべき声音だ。
貫く切っ先は鋭利で美しい。
恋煩いの女じゃないからだ。
ジャムがついていた指先を舐めると気にした風でもなく、また新しいスコーンに手を伸ばす。
ああ、毒は苺の方か、などと考える。

「何も出来ずただ過ぎ去るのを待つのか」


ああ、拙者は先ほどから何も告げていない。

「…待つことにはなれているでござるよ」
「待ちすぎたら死んでしまう」

もう十分すぎるほど待っていながら、まだ待ち続けるのだ。
この身が腐り堕ちるまでは裁定を降したくない。
怖いのだ。

「俺はアンタが嫌いじゃないのに、アンタが喜ぶ事をあまりしてやれない」
アリスは哂う。

怖い物などなにもないのはこの生き物が人間ではないからだ。
嘘をつき合っている。
美しいものがすきだ。
恐ろしいからだ。
頷くと、主の最愛のアリスは泣き笑いのような表情をしてカップに口を付けた。
もうじきこんな顔も見られなくなる。
この子はもう大人だ。
あれから何年経った?
日一日と心は凍り付いていく。
このままここで逃がしてやったほうが幸せなのだとしてもそれはできない。

アリスは夢から覚めたが、ハートの女王は永遠に夢の国で美しいまま朽ち果てられない。
このアリスは眼が覚めたまま見る悪夢の体現者だ。

“And that’s all”

まだ悪夢は覚めない。





水を代えなきゃ魚は死ぬな。

目の前で女達が可愛らしい甲高い声で話す。
熱帯魚の群れみたいだ。
ひらひら揺れるドレスの裾。
ああ、ドレープというのだったか。
魚の尾ひれのように美しい。
のたうつ苦痛を表わしているのかもしれないが(だって陸に上がった魚は死ぬだろ)。
肩に置かれた手を意識しないままに、そっと下ろしてみれば女が困ったように笑む。
「ありがとう、慰めてくれているんだろ」
女が頬を染めて頷く。

晋助、昨日の電話の声がいつもと違った。
数日中にまた逢いに来る筈だ。
愛していると繰り返しているのに、俺とあの人は何かが寂しい。
愛している、というのはそもそもなんなのだろう。
あのひとはどこかがおかしく、だからこそ誰もがあの人に惹かれる。
俺はいつもあの人の絶望の中で息をしてきた。
そのせいか最近は何だかずいぶんと疲れやすい。
河上。
ちゃんと捕まえておかないと。
もう少し時間を稼いでくれなけりゃ。
まだ。

女がシャンパンを注ぎ足した。
目線で礼をすれば微笑がかえる。
熱帯魚の群れは綺麗で不憫で好きだ。
好ましい、という言葉に言い換えたほうが良いか。
どの女も結局同じに見える。

ああ、自分は傲慢で残酷な生き物だ。人を愛する資格など最初から剥奪されている。

せめて、せめてやさしくありたい。
右手で傷をつけた生き物を左手で慰撫することはやさしさではなくて違う何かかもしれないけれど。
そのうち高杉だって俺のことが不要になる。
三界の狂人は狂せることを知らず。
死ぬのは誰だってひとりだから。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、
ああ、なんだったか。



昨日の事が既に泡沫の。
事務所のドアを潜る時はいつも他愛の無い思考に溺れる。
後ろ暗い仕事で遊ぶのを赦してくれるのは愛情なんだろうか。
晋助が俺を、こうして送り出してくれたから、俺はこれから色々なことができる。
「痛み」に纏わる色々な事が。


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