一人の男が深夜の店を訪れたのは河上が店を閉めた後の話だった。
男はダークスーツに身を包み、やや緊張した面持ちで店に入った。



(高杉晋助の、店だ)

河上万斉は感情の無い顔で此方を迎えた。
高杉がただの風俗店のオーナーじゃ無いことくらいはわかっていたが、
あえてただのオーナーとして話を進めた。
そのほうが高杉晋助に近くなる。
「顧客を何人か御宅で遊ばせたい。紹介は私の名前で。みな身元ははっきりしている」
「………身分照会はウチがするでござる」
「私がリストを用意している」
「それでは不足だと言っているのでござる。他人の用意した皿で料理を食べるのは信頼しているときだけにしているのでな」
「新宿でよくそのスタンスでやっていけるな。悪い話じゃないはずだ」
「ウチの店は客を選ぶでござる。お主の言うような客は受け入れられないでござるよ」
話のわからないマネージャーに苛立ちが募る。
河上万斉がただのマネージャーなどではないことくらい百も承知だが。
「あんな小さなガキにまで仕事させていたアンタに、此方の品格をとやかく言われたかないな」
何か言う為に河上が開いた唇は閉じられた。
かたりと小さな物音に押し黙ったふたりの前にこども特有の足音。
「俺が自分で見たいって頼んだの」
テーブルに近づいてきたこどもに見覚えがあって一瞬動きを止めた。
「土方殿」
河上万斉が珍しく何がしかの感情を乗せた声音で話していたのが印象的だった。
「君は」
「こんばんは」
綺麗な顔のこどもだ。
薄桃色のシャツに細身のパンツが良く似合っている。
手足が長く、顔が小さく、そしてパーツはすべて酷く整っている。
正面から見てすぐわかった。
「あのときの子か。少し大きくなったな」
一度だけ幸運にも試すことが出来た裏メニュー。
何も知らない無垢な美しい幼子に、「見せる」だけの。
「はい」
「…本当に土方って名前なんだな」
「うん。どうして?」
「偽名かと思った。あんなにあっさり教えてくれたから」
「あはは、嘘は好きじゃないよ」
こどもは思わず抱きしめてしまいたくなるような屈託の無い笑顔でこちらを見た。
まるでアイドルかモデルのような完璧に均整のとれた容姿だ。
「あのときは君が不思議で仕方なかったよ」
「なぜ」
「こんなちっこくて綺麗な子が何やってるんだろう、俺は何やってるんだろうって正気に返っちまった」
こどもは長い睫をぱちぱちと開閉させた。
「営業妨害だったな。あの後結局SMからは遠のいた」
「そう。でも俺ももう、ああいうことはしていない」
「そうなのか」
こどもは小鳥のように愛らしい仕草でこくりと頷くと身を乗り出してきた。
それから、すべてがスローモーションのように見えた。
こどもの指先が襟元を掴み指先が頬を這い耳を擽るように動き唇に触れてからおろされた。
ぞくりと何かが背筋を這い上がってくるのがわかったがそれが何なのかはわからなかった。
こどもは確かめるようにこちらをじっとみつめてから口を開いた。
「……皮膚が乾いてる。緊張してるの?万斉さんは怖いから」
頷くことも出来ずにいるとこどもは気にした風でもなくまたこども特有の優しい顔で笑った。
「高杉に逢いたいの?」
たかすぎにあいたいの、意味を変換するまでには時間がかかった。
「逢いたくてわざわざ来たんだよね」
こどもは無邪気な顔でそう言うと、穏やかに笑う。
唐突に、このこどもが歳よりも随分と上の、もっといえば得体の知れない生き物のように見えて奇妙な気がした。奇妙、というのは語弊があったが他に言い表せる語彙も無い気がした。
「高杉が忘れられないんだね」
断定というよりは、自分で確認しているような口調だった。
逢いたい、という言葉をそのまま好意に置き換えられることに怯えたがこどもはそういった無粋なことはしなかった。

「逢わせるわけにはいかないでござる」
きっぱりと河上は言うと立ち上がった。
「俺は」
「何でござるか?晋助にそのケはないでござるよ。商談に私情を挟むのをあの男は嫌う」
晋助という親しい呼び方に上がった眉に河上は呆れに似た表情をしたが結局何も言わない。
「晋助はそういった手合いには慣れている」
私は違うと言い切れなかったのが口惜しい。
完全に此方に興味を失ったような河上を前に次の言葉を探したが見つからない。

「華僑の出資会社に勤めているんでしょ」
思わぬ声に立ち上がりかけたがこどもの手が男の肩を推し留めた。こどもの!
「なら、高杉にとっては利用価値があるよ」
にこにことこどもは笑いながら肩に置いた手をそっと外した。
何故知っている、と言えなかった。
認めることが不利になるのか否かの判断が咄嗟につかない。
ウチが香港華僑のダミー会社であることをなぜこんなこどもが知っているのか。
座っていて、と目されて素直に座ってしまうのはこのこどもが何か特別な生き物だと本能的に感じ取ったからだろうか。
「土方殿、それは」
「ビズィネスの話」
「しかし華僑なら他にもアテは」
「イチから都合つけるの大変だよ。それに彼らは狡猾でお金にスィビアーだから」
「晋助を餌にするというのでござるか」
「高杉はそういうこと気にしない。それにあんな素敵な餌、飲む前に死んじゃうよ」
にっこりとわらったこどもは此方をみると笑みを消した。
「高杉がほしい?」
頷くこともできない。
こどもが身をゆっくりと乗り出しながら紅い唇で囁いた。
「……ほしいものもほしいといえないようじゃてにはいるものなんかしれてるよ」
「あ………」
そのままこどもは赤い唇を笑みの形に変えた。
「いえるでしょ、ほら」
「あ…………」
出来の悪い子供に言い聞かせるような口調で囁かれる。
恫喝よりも恐ろしい声音。
「私、は……彼にもういちど、」
語尾が震えるのをこどもは優雅な笑みで受け流したが赦してはくれない。
退屈な女王のような顔で最後通牒を告げた。
「ほら、最後のチャンス」
衝動的に叫んでいた。
「ッ、私は彼に会いたくてここに来たが、君の言うように相応の見返りを提供できるッ、だから……」
よくできました。
そう言われて頭を撫でられたような錯覚を起こすが正確にはそんなことは無かった。

「ねぇ、河上さん。高杉はこの人のツテが必要。このひとは高杉にもう一度逢いたい。良いんじゃない?ギヴアンドテイクがビズィネスの基本なんでしょ?」
教えられたとおり正しくビズィネス、と発音した賢いこどもは冷静にそう言う。
「……拙者がそう教えてしまったんでござったな。優秀な生徒でなによりでござる」
「ふふ」
こどもは優しい目でこちらを見た。
「風俗のお姉さんと同じだよ」
此方の理解を問う表情でにっこりと笑う。
「三万円で女の人を買う人は、自分も女の人にとって三万円の価値しかないって頭に刻んどかないと」
「そういうことが出来る男が居たためしはないでござるよ」
「そうなの?」
「見ていて思わなかったでござるか」
「うーん、どうだろう?お姉さんはみんなそんな感じだったよ」
「男は馬鹿なのでござるよ」
「ふうん」
こどもは幼い表情をした。
「でもおじさんはそうじゃないよね?」
こどもはにっこりと笑う。
「つまり、私は高杉のために尽力しなければならない」
「そう。あなたは高杉にとって道具でしかない」
こどもは優しい表情で続けた。
「でも貴方は幸せでしょ」
うなづくとこどもは優しい笑みを深くした。
「高杉は凄いもんね。俺も、道具だからその辺のところがよくわかる」
それは違うと河上は言っていたが、こどもはにこにこと笑いながら立ち上がった。
「おやすみなさい。ふたりとも」

礼儀正しくそういうとこどもは店の奥に消えた。


全身に嫌な汗をかいていた男は、自分が緊張していたことに今更に気付く。
河上が事務的な表情で仕事の話をしだすのを聞きながら、先ほどのこどもに触れられた箇所が熱を持ったような錯覚に包まれて喉の奥で呻いた。
畏怖、そういった表現が相応しかったのだと後で気付いた。
まぎれもなく、あれは畏怖という感情だった。
毒の華が高杉ならば、あの天使のような顔のこどもは何と言うべきか。
性の匂いからもっとも遠い所にいる生き物の筈の幼児が、何故か濃密な快楽の残滓を突きつける。
それも此方が持つ邪なものを剥きだしで見せ付けるような無慈悲な。
あのこどもとは、できるなら二度と逢いたくない。
暴かれた。

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