高杉は、この世の高慢と尊厳をすべて詰め込んだような完璧な足音を立てて、歩いてくる。
その足音にいつも俺はうっとりとしてた。
強い男の自信を絵に描いたような、素敵な足音。
なのに、この日の高杉はその足音を立てない。
悲鳴みたいに、甲高く鳴る足音。
リノリウムの床に尖った釘を打ち付けるみたいな。
人の手のひらか耳でも、打ち抜けるかな。
あんまり面白くないピアス、レトロな呪い。
クルリフラジウム?
茨の冠と磔刑?
やっぱ、金時さんが天使なら、高杉は天の御使い。
笑ってくるくる黒い服で踊るひと。
ってそれは死神、でも高杉ならなんでもいい。
俺で何をしたって良い。
できるだけ元気に見えるように無理矢理起き上がって俺は笑ってみる。
ゆがんで歪な笑いになってしまってたみたいだ。
俺の出来損ない。
だって、高杉があんな顔をしたところを見たのはこのときだけ。
だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。
無理矢理囁くともっと酷くなった。
ごめんね、泣かないで、高杉。
高杉が痛いのは嫌だ。
ああ、痛くて、俺も限界。
俺の出来損ない。
痛いよパパ、なんてふざけてみたかったけれど、やめた。
血の気の引いたような顔で
「とうしろう」
そう俺の名前を呼んで、俺をそおっと抱き寄せて、高杉は長い指で俺の髪を優しく撫でた。
俺はその声になんとか反応しようと、動くほうの手で高杉の指をきゅってにぎった。
動かしただけで痛くて涙が出たけど、折れてるから当然なんだけどなんだろう、おちついた。
涙がぼろぼろぼろぼろ溢れてくる。
やっぱり怖かったのかな。
回路がうまく繋がっていないのかも。
「モルヒネか、なんか…」
高杉が俺の涙をそっと拭ってくれて、焦ったように言う。
だめだよ、痛みがどっかいったら意味が失せる。
意味が失せたら可愛い金時さんにしたことが無駄になる。
上手く説明できないのが歯がゆい。
くいくい服の裾を引いたら、勘違いした高杉がまた俺をそおっと抱きしめて髪にキスする。
「もう怖くねェからな、痛ェのも、なんとかしてやる」
甘い声。砂糖を溶かしすぎた紅茶みたいな。
何とかしてくれるのは知ってる。いつもそうだね。
あのときもそうで。
でもちがう、そうじゃない。
俺は7つのガキじゃない。
首を振るのにわかってもらえない。痛い。
いつも高杉は俺を通して違う何かを見てる。
でもそれが嫌いじゃない。
俺も何かを見ないフリで見ているし、
見ているフリで何も見ようとしないときがあったから。
「土方殿のように若い御仁では、中毒性のあるものは勧められないでござるよ」
万斉が静かに部屋に入ってきた。
最初から、多分入り口に居たんだと思う。
いつだって高杉のそばにはこの影が落ちる。
この人は優しいけれど目が笑わない。
「これじゃ痛くて眠れねェだろうが」
高杉は俺を抱きしめたままあやすみたいに頬を摺り寄せて、万斉を睨んだ。
どうして、俺のことなのに自分のことみたいに言ってくれるんだろうって、いつも思ってたことをまた思う。
高杉のほうが痛そうにしてる。
俺は、平気だよって言った。本当に平気だよ。
痛くないって言えば嘘。
それは駄目だから言わない。
高杉に嘘は言わないと決めている。
ほんとうのほんとうに平気なんだよ。
高杉は納得していないみたいで、低く何か唸っていたけど、
「高杉がそばにいてくれたら、ねむれなくても寂しくない」
なんだか小さい子どもみたいで嫌だったけど、嘘をつくことはしたくないから正直にそう告げたら。
「万斉、仕事は全部キャンセルしろや」
もう決定事項みたいにそれだけ言い放つ。
ああ、他意はなかったのにごめんなさい。
万斉は少し溜息を吐くと部屋を出て電話をかけ始める。
「なんか欲しいものないか」
高杉はそう言うと俺の髪に音のするキスをした。
背後の扉は閉まったままだ。
「…The mad tea
party.」
などと思わず呟いてしまう自分は意外にもメルヘンな思考回路なのか。
この光景以上にメルヘンなものなどないだろうが。
鮮やかな食器の上で小さくまとまったフランス料理。
「高杉、ごめん…こんなにいっぱい食べられない」
「少しずつでいいから、すきなとこだけ喰え、な」
「…ん」
純銀のフォークの先で赤く主張する野菜から滴るソースは薫り高い。
両手に怪我をしている少年の桜色の唇にそっと運ばれる赤。
吸い込まれるように消えた後も、次々。
味は勿論、小さく、消化に良く、滑らかに。
難しい注文を高杉の贔屓の店のシェフがこなした結晶。
病人、といっても怪我人なのだから食事制限はほぼ無いのが幸いだった。
土方にとって美味しい新薬を開発しろと言いかねない男だ。
「ほら、これと一緒に食えば、薬も苦くねェだろ」
「う、ん……」
「もっと水、飲ませてやるからな」
「ん……」
「…っは、口、冷てェな…可哀想に」
「だいじょ、ぶ」
グラスを持つ高杉の手が、優雅に自らの口元へ移動する。
女が見れば見ほれるような光景。
が、自身が飲むわけではない。
そのまま合わされる唇たち。
口移しに与えられたミネラルウォーターと抗生物質が、少年の小さな喉でゆっくりと嚥下されていくのを見るともなしに見て。
用が済んでも唇をあわせて戯れるお姫様と王様の会話を聞きながら、
トランプの兵隊のようにただ前を向く。
マッドハッターならば紅茶のお代わりをアリスに淹れてやらなければ。
ベッドサイドに溢れるみたいに、花とお菓子と玩具が置かれた個室。
運び込まれた巨大なベッドは特注の可動式でふかふか。
今はふたりでそこに並んで座っている。
巨大な白鯨のような背もたれよりも晋助の硬い身体がいいのか、身体をくったりと預けてされるがまま。
撫でられて触れられて口付けられて可愛がられ続けている。
まるで言い訳のように、ときどき医者が来るほかは、この部屋は自分以外の誰の出入りも無い。
晋助が半狂乱になって行方を追わせているが、坂田金時の足取りは掴めない。
…あの御仁がそうやすやすとつかまるとも思えぬ。
きらきら光っているみたいに、色とりどりの菓子が散乱して目に痛い。
運び込まれた大型の、なのに薄く美しいプラズマテレビは新作の映画をずっと流している。
雑誌も、ムックも、CDもDVDも数がありすぎてわけがわからない。
輸入物の高価な音の鳴る人形。クリスタルのパズル。
柔らかなアンティークのテディベアが番人の様に7つ。人の煩悩か、はたまた原罪か。
ひとつで100万はくだらない。
少女でなく大人の女こそが喜びそうだ。
晋助のアリスは玩具で遊ぶ歳じゃない、大体男の子だと言ってきかせたが無駄だった。
アリス、いや土方少年はとても利発で、年齢より随分大人びた思考をする。
哲学書の一冊でも差し入れてやれば喜ぶような賢い子どもだ。
晋助の目にこの少年はいくつに映っているのか。
いくつでも構わないのかもしれないが。
ああ、それにしても。
女にすら花など贈らない男が。
裏社会の帝王、皆が畏怖し敬慕し跪く男が。
こうして、もう毎日この綺麗に磨かれて飾り付けられた箱庭でこどもと戯れている。
眩暈がするほど美しく、寒気がするほど淫靡だ。
等身大の人形を収めたドールハウス。
甘いお菓子の匂いと綺麗で可愛い玩具。
吐き気にも似た感覚。
ここは現実なのか。
いつも思うが晋助は夢の中なのかもしれない。
「あのとき」からずっと。
人形遊びをする少女は利発なアリスではなく孤独な王様のほうなのかもしれない、
ふと思った。
風の強い日だった。
窓際から吹き抜ける風にあらゆるものが飛ばされていくような日。
開け放たれた窓からの風に、ベッドサイドの花が散り、白いシーツが舞い上がる。置き去りの本がページを捲られ続け。
窓辺で舞い上がったシルクのカーテンの前に土方が立っている。
天使の羽か花嫁のベールを纏っているように荘厳に。
純白の檻の中で優雅ささえ感じさせる光景。
振り向かない背は、羽を仕舞いきれないからだろうか。
「土方殿」
かけた声に音もなく振り向いた少年は。
凄まじい風で舞い上がった白すぎるリネンが身体に巻きついて、まるで天からの美しい使者。
なぜ自分はこの美しい光景を壊してしまったのだろうかと瞬きする間に考えた。
少年が窓を閉めた。
舞い上がったシーツが床に落ちる。
天使が羽根を捨てたように。
「おかえりなさい」
にっこりとわらった少年は、人間の殻をこのときにはもう捨てていたのだと思う。
羽根と一緒に。
天使でも人間でも無いのならば、この美しい生き物はなんなのだろう。益体も無いことをいつも考える。
「晋助は」
「お仕事」
目を見張るが少年は微笑んだ。
「俺がお願いした。だってもうずっとおやすみしてくれたのに、じゅうぶんだよ」
やわらかい発音で言葉を告げながら少年はすこしずつ、笑みを消す。
「高杉を好きなのは嘘じゃないけど、欲しいものがあるから」
「晋助は、主を愛しているでござるよ」
「わかってる。でも、次に行かないとね。ずうっと痛みを見続けて、今度ので思い切り酷く体感して、あとは」
その腕をふるうだけだとは言わなかった。
少年はそういう生き物ではない。
口にせずとも。
「もう、お遊びはおしまい」
「……土方殿」
「強くなりたいな」
少年は笑った。
「晋助がなんと言うか…」
「自分の身を自分で護れるようになりたいってお願いしたら良いって言ってくれた」
……そうか。
なら拙者が口を挟むことではない。
愚かな男はアリスを違うものにしてしまうことに気付いているのか。
ああ、晋助に見えぬものが見えるのが口惜しい。
「ね、おねがい」
深く溜息を吐いた後、
「……仰せのままに」
女王に傅くように恭しく、河上万斉はその手をとった。
アリスはハートの女王になっても、やはりアリスのように可憐だ。
さあ、眼が覚めてからみる悪夢の続きといこうじゃないか。
本当の狂気は、白く清潔で美しいのだから。
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