すべてのかわいそうなかわいいおとなのために


痛みには種類がある。
表層を伝うだけのもの。奥深くまで響くもの。
打撲痕、擦過傷、火傷、痣、腐敗、腫れて熱を持つ皮膚、流血する皮膚。

身体の表面のみを紅く染める痕は、骨まで響く種類の痛みではない。
それでも、一応確認をする。
「骨まで痛む?」
相手は首を振った。
「アイシングでいい?」
相手が頷くのを確認してから、土方は氷嚢をガーゼに包んで
患部にそっと押し当てた。
「この腫れはすぐ引くね」
相手は口の端を切ったようでしきりと気にしては舐めていた。

「薬塗る?」
相手がやはり頷いたので土方はガーゼを使って相手の口の端に薬を塗った。

「自分の手でさせないのでござるか?」
横目に見るとも無しに眺めていた万斉は声をかける。
何も土方が手ずからしてやることではないといつも思っているから。
「やりにくいだろ」
「ガーゼは使いにくそうでござるよ」
「雑菌が入ったらいけないから」
淡々と言う土方に万斉は少し苦笑した。

「店」の店員を帰らせると、土方を手招いた万斉は彼に飲み物を渡す。
「金時さんは、手加減してるな」
素直に礼を言った後、ぼんやりとした表情で土方は言う。
「どうしてそう思うのでござるか」
「骨まで響く傷じゃない。平手で殴ってる」
「殺してしまってはプレイにならないでござるよ」
万斉は至極冷静にそれだけ言うと土方がきちんと水分を摂取するのを見届けた。

「あの人怖いのかな」
「ナニがでござるか」
「自分が」

それきり土方は何も言わず、きちんと片付けをして帰ってしまった。
送る、という万斉の申し出を辞退して。
取り残された万斉は土方の言葉の意味を考えていた。

あの男が怖がりなどするのだろうか。
晋助さえどこかで意識する、あの男が。






店の売り上げを計算し、月イチの高杉への報告書をまとめた後、万斉も店を完全に閉めた。
オーナーの高杉は警察の手入れがあるという話を恐るべき情報網で掴み、風営法の規定内のワット数
に全ての電灯を切り替えさせ、細かな調整を言い渡していった。
怜悧な計算はシビアなこの業界で生き残っていくための手段だから万斉も何も異を唱えたことは無い。
クラブ「アルファヴィル」。高杉の趣味かは定かではないが、皮肉な名前に相応しい新型風俗店。
非接触型風俗をこの界隈で有名にしたのもこの店。

裏メニューはその一番美味しいところを法外な値段と引き換えに味わえる。
土方十四郎はその大事な役目を果たしている。
酷く繊細な美少年だ。


「十四郎、これも喰え」
つい、と差し出された料理に土方が笑みを浮かべる。
「エビマヨ、好き」
「じゃもっと喰え」
もっと、もっと。いつも高杉はなるだけたくさん食べさせようとする。いつもは帝王のような男が、自分のために手ずから皿に料理をよそってくれるのがくすぐったい。
「細っこい身体じゃ、いざってとき困るだろ」
自分だって細いじゃないか、と思うのだが、高杉は強い。
恐ろしいくらいに。

それはありとあらゆる種類の痛みと関わってきたからなのだろうか。
土方はいつも考える。
「十四郎、手が止まってる」
「あ、うん…」
頬杖をついて横目に土方の食事を眺めていた高杉が
(行儀がよくないから真似するなと万斉に言われた)
土方の眼をじっと覗き込む。
「何かあったのか?」
「ん……」
言ってもいいかな、と少し考えて、高杉に隠し事はいけないなと思いなおす。
「金時さんに言われた」
「何をだ」
「今度プレイしないかって」
「いつもしてるだろ」
「見るほうじゃなくて、殴られるほ…」
「駄目だ」
ガタンと音がして高杉が身を乗り出す。
「…殺されるぞ」
大きな音に反応して外にいた「護衛」が部屋を遠慮がちに覗く。


「うん。俺もそう思う」
冷静に返事をした土方を見て、護衛たちは安心したようにまたドアを閉めた。
高杉はドアを振り向きもしない。
「今までどおり。お前は見るだけ。いいな」
噛んで含めるような優しい口調で高杉は告げる。
「うん」
「今後も客から誘われたら俺に報告しろ。出入り禁止にしてやる」
「金時さんは、ふざけてただけだよ」
「次は無いって言っとけ」
「ん」
そのまま、伸ばされた手に目を細めて、土方は優しい抱擁を受け入れた。
高杉の手が何度も土方の頭を撫で続ける。
「今日は泊まってけ。明日送っていってやるから」
「うん」
高杉の肩に寄りかかるようにして、土方はゆっくりと眼を閉じ、深く呼吸をした。


風呂を借りて良い気分の土方に万斉がミネラルウォーターを差し出す。
礼を言うと受け取って、ゆっくり飲みながら音楽に耳を傾けた。
何故か、いつも高杉の部屋には音楽がかかっている。
クラッシックもジャズもロックも、不思議なくらい部屋にあう。

「十四郎」
呼ぶ声に振り向くとそのまま優しく顎を捉えられた。
思い当たって目を閉じる。
そっと、羽がふれたような柔らかな感覚が唇におちる。
「ん……」
「おやすみ」
「うん…おやすみなさい」








俺は勘だけは昔から良かった。

修羅になるためには、避けて通れない道だと勝手に確信していた。
事実俺は誰よりも残虐になることができた。
だから、あのときの傷が一人の男の人生を変えてしまっていたことなんて、
思いつきもしなかったんだ。


痛みはやはり人を変えてしまうんだろう。


高杉ですら悩み続けていた。
俺を愛しむ高杉の愛情は窒息しそうに重い。
家族のように愛しているのに。
どうしたって俺は高杉の世界になれない。
高杉の問題は高杉が処理しなければならない種類のもの、いやきっと処理することすら
本人が拒んでいるのだろう。
結局。
俺は痛みを受け入れるからといって相手まで受け入れられるわけじゃないんだ。

金時さんは俺ににっこりと悪い大人そのものの笑みを見せた。
こっちにおいでお菓子をあげる。
抱っこしたげる。
おもちゃをあげる。
そういう種類の笑い。
叱らないよ、怒らないよ、怖いことなんかしないよって、言ってる。


高杉にも、ごくたまに叱られたり、怒られたりしたけど、それとは別。
怒られるといってもそれは「ばかだなぁ」
という苦笑とともに甘い声でそれはいけないとかもっと上手いやり方があるとか
そういう叱責とも思えないことを言われるだけだ。
しかもそうやって怒られた後は必ず誰かが俺の好きなものを食べさせてくれたり、映画を見せてくれたり

して結局おれは教育されていても叱責されたことはないのだとおもう。

少なくとも俺の知るような陰惨な手口でこどもを思いのままにしようという人間は一人もいなかった。








俺は、金時さんの頭の中にあるスイッチを知っている。
それが普段は深く深く隠蔽されていて、金時さん自身ですら意識していないのだということも。

そのスイッチを押したら。
金時さんは病気のひとみたいにわけのわからないことを言って、酷く興奮して、それから泣いて、俺の首を絞めて、俺の身体を何度も噛んだ。
金時さんの性器が立ちあがってて、あ、この人こういうので興奮するんだ、いつも見てたけど。もっと冷めてたのに。
殺しちゃったらプレイにならない、じゃなくて、やっぱ自分が怖いんだろうなぁ、と頭の中のどっかが囁いたけど痛みの声の方がずっとずっと凄くて全然考えられない。
ボリューム足らないよ。
もっともっと大きな声で痛いって言わないとこのひとを喜ばせられない。
でも別に俺はこの人を喜ばせる為に生きてないし叫んでないのになんで。
抉られた粘膜の内側で細胞が死んでいくような強烈な痛み。
ぎりぎりと痛覚が刺激されて声も出ない。
し、意識がぐるぐるする。
足を捕えられて、ああ、折られる。
冷静に判断できたのはこのくらいまで。
壮絶な痛みに気絶できたのは幸福だった。金時さんが泣き叫んで俺に謝ってたのは何でかよく分らない。
ね、なんであやまるんだろうこのかわいそうできれいなかおのおとなは。








目覚めたとき、
少年は狂った様に微笑んだ。
嬉しくて。
多幸症の患者みたいに。


「………いきてる」
そう言って自分でも驚いた。
生きているとは思わなかった。
事実あのとき一度自分は死んだんだと思う。
金時さんは見た目には天使みたいな金髪してるし。
俺なんかが天使にお迎えってムシ良過ぎか。
あーあ、
起き上がろうとして身体中が恐ろしいほどに痛み、悲鳴が喉の奥で凍りついた。
身体中がの感覚が痛覚にすり変わったみたいだった。
ずきんずきん、ほんとに、そんな感じだ。
吐く息すら苦痛を伴うもので、生きていることは死ぬより痛いのだと身体で理解した。
痛い、って言う、言えるうちは、まだ、マシ。
だって、今、声も出ない。
声を出す場所が口しかないからだ。
口以外がしゃべったら痛い、死ぬ、苦しい、痛い、だけがなりたてる、絶対。
生の実感は死の恐怖と表裏だといつか高杉は言った。
それは痛みを伴う「死の恐怖」なんだろう。
痛みの中に生きている実感を求めることは死に向かっているという点で
逆説的だとずっと考えていたのに、
少しも矛盾していないのだと感覚で知ってしまった。
それから。



俺はこの先凄く酷いことが出来るんだろう。
鬼か悪魔みたいなことが。



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