セレナーデ






不思議な初老の男だった。


そのおかしな初老の男は土方の手をそっと握って、
「君の願いを何でも叶えてあげるから、私の願いを一つだけきいてくれないか」
そう言った。

その日俺の他にその小さな店に店員は居なくて(オーナーは食事に出ていた)客は誰も居なかった。
元々あまり人が来る店じゃないのだ。
店自体が何か金のある人間の税金対策だか、道楽のようなものだか、らしいから良いのだそうだが。
仕事も楽だったのでたらたらしていたらこれだ。



面接のときに言われた。
「人によっては結果を出すのに二週間くらいかかるんだけど君なら多分三日も待たないうちに返事が出来るよ。それも良い返事。時間が掛かるのは俺が選ぶわけじゃないからさ」
なにやら愛想のいい男がそう言って土方の肩をしきりに触った。
変な店だと思ったが仕事の簡単さと、何より給料が良かった。

土方が思い出して微妙な顔をするのを目の前の男は微笑みながら見ている。
「お願い、ですか?」
そう、お願い。
瞬きをしてみたが事態は変わらない。
何をさせられるのか。
「・・・俺は何をすれば良いんですか」
「私の願いを聞いてくれるかね」
「・・・・・・内容によります」
「出来ないことではないよ。私は無駄な要求はしない主義だからね」
それは俺も同感。出来もしないことを要求するのは時間の無駄だ。意外と世の中そういう無駄が多いよな。
「君は私にかなえて欲しいことはあるかい」
「・・・急に思いつきません」

一週間後にまた来るといってその初老の男は去っていった。




「絶対ソイツやばいって。やめちゃえよ、その店」
うーん。
金時は俺の為にワインを注ぎながら言い、つまみのチーズを口に運んだ。
「トシ君は美人だから絶対エッチなこと要求されるよ!そんなの金さん絶対ヤだ」
馬鹿げたことを言いながらけっこうマジな目で金時は土方を見つめる。
ワイングラスを傾けながら土方は少しまわり始めた酔いにうっとりする。
(土方は酒があまり強くないのだ)
金時は笑いながら
「すーぐ気持ちよくなっちゃうんだよね、トシ君は。はい、あーん」
機嫌よく言うとチーズを土方の口に運ぶ。
大人しく雛鳥のように口を開け、咀嚼した土方に目を細め、金時はそのままぺろりと指先を舐めた。
「今日は魚料理でーす」
二人で酒を飲みながら料理を作るのが休日のお決まりのパターン。
広いキッチンで心地良い酔いに包まれて、夕食はいつも楽しい。
器用な金時に教えられて土方の料理の腕も今ではかなり上達した。

満腹になったら二人で映画を見たり音楽を聴いたり、してるうちに大体、甘い感じになってくる。
節くれだっているが長くて良い硬さの指が這い回るのを甘んじて受け止めながら、ぼんやりと考える。
俺の願い、ってナンだろ?

コイツが好き好き言いながらまとわりつくのが可愛いっちゃあ、可愛い。
金色の髪を触ってやると金時はにこっと笑いながら身体を探る。
あ、段々核心に迫って、きた。
コイツ、ヤルの好きだよなー。
あぁ、流されるなぁとか思いながら抱きこまれて押したおされる。身体を寄せて、キスを繰り返すような緩やかな愛撫は嫌いじゃない。
アルコールが入った身体は弛緩していて、こうやってなだれ込むのも不快じゃない。
それに、この調子だと程よく疲れてゆっくり眠れる。
「ふぁ・・・」
息を零して見上げると目元が潤んでいるらしく、天井の明かりがぼやける。
ていうか眩しい。
おい、ライト消せ・・・まぶしい。
口を開こうとするより早く察したらしい賢い男はちゅ、ちゅ、と機嫌よく口付けながら身を引いて
サイドテーブルに置かれたリモコンでスイッチを切る。
徐々にルームライトが柔らかい光に切り替わり、薄暗くなった部屋で、もうお互いの息と衣擦れの音だけ響く。
高層マンションのデカイ窓からは夜景が光っているのが見えて、
金時の髪に少しだけ似ていると思う。
凄く綺麗だ。
口元を笑ませると下唇を優しく食むようにされて、ぞくりと脊椎に甘い痺れが上ってきた。
あぁ、なんかやらしい・・・。
そのままのしかかられてちょっと重い。体格がほぼ一緒だからなぁ。
眼が慣れてきてお互いの輪郭が分かる。ペロ、と敏感な所を舐められて身震い。快感と嫌悪のギリギリのライン。
震えて、不埒な動きをする指を締め付ける。嬉しそうに男が喉で笑う。
あ、今、コイツやらしい顔してるんだろうな、っ・・・そ、んな、動かす、な。
思わず出た声にますます嬉しそうな顔をした金時は瞼に何度もキスをくれた。
そのまま、朝まで互いに抱き合って眠った。

そのせいで俺は途中まで考えていた「お願い」を思いつくことが出来なかった。





コーヒー入れろ。

はいはい女王様。ミルクは?

・・・一応、なんか胃がオカシイ。

ダイジョブ?何か変なもん食った?

いや、二日酔い、か?

エッチが応えた?久しぶりだったから。

・・・・・・そんな柔じゃねぇ。

ふふ、冗談だよ。

カップを持たないほうの手で頬を触られると、そのまま軽く額にキスをされる。

はい、熱いから気をつけろよ。

受け取って素直に冷まそうと息を吹く。

あーなんか忘れてる。



ああ、そうか。
今日で一週間だ。

男は約束どおり一週間後に店に現れた。

店内にあるテーブルに紅茶を淹れ、座るように進める。
「永遠の愛ってあるんでしょうか」
土方はそう言って薄墨色の美しい眼で男を見た。
「それが君の願いかね」
「ただの疑問です。乞われても、貴方叶えられないでしょう?」
土方の物言いに初老の男は上品ににっこりと笑った。
「叶えてあげようかい?」
「相手の指定ができるなら」
「…おや、やはり賢い子だね」
「愛されたいと思う人間に愛されなけりゃ、意味なんざ無いでしょう」
「私が君を永遠に愛するよ」
男はそう言って土方をじっと見つめた。
何故か少し、少しだけ怖いと思った。
強がりな土方の脳がそれを認める前に男はまたにっこりと笑って場の空気を和ませた。
「私は見ての通り間違い無く君より先に逝くからね。私が生きている限り君を愛し続ければそれは永遠だろう?」
「…死ねば恋は終わるでしょう」
「ふうん…確かに人の生は有限なのかもしれないがね」
土方を見る男の眼が溶けそうに優しい。
なのに。
「君はまだ失くした人を想っているじゃないか」
その瞬間。
土方の心が僅かな悲鳴をあげた。
唇が震え、肌が急速に血の色を失う。
ふらりとした眩暈、貧血の兆候。
支えようとした男の手を振り払って、我に返った土方は非礼をおざなりに詫びたが全身を緊張させ、手負いの猫の様に男を警戒した。
「…すまないね。君を悲しませたいわけじゃないんだよ」
男は初めて生の感情らしいものを見せ、確かに痛ましげに土方に向き直った。
受け取るほどの心の余裕が存在しない土方は頭の片隅で逃げたいと、小さく何度も繰り返した。

「私が君を永遠に愛するよ」

繰り返しの男の言葉は最早土方の心の何ものも動かしはしなかった。








どうやって逃げ帰ったか覚えていない。
部屋に鍵をかけたつもりだったのに、金時は俺の部屋に無言で入り込んできた。
いつもは必ずノックがあるのにマナー違反。
そんなことに構っていられる心理状態じゃなかったけれど。
覚束ない思考のまま見上げる。
俺はよっぽど酷い顔をしていたのか、金時は俺をみるなり嘆息した。

「何があったか知らないけど」
それから俺を抱き寄せた。
「泣きたかったら俺の目の前でにしてね」






トシが帰るなり部屋に逃げ込んだ。
時折あることなので俺はそういうときの為に作ってある鍵で彼の部屋をあける。
びくりと揺れた肩が弱々しげで可愛い。
小さい子みたい。
「何があったか知らないけど」
抱き寄せたトシは震える。
「泣きたかったら俺の目の前でにしてね」
抱きしめたまま腕の中の柔らかな身体に告げると、普段は頑なに閉ざされている感情の蓋が開いた。
「う、ひっ・・・くっ、ぅ・・・ひっ」
嗚咽が止められないのか、肩が断続的に揺れる。
腕の中にあるといつもは凛とした強い身体も酷く脆いものだと思える。
「俺さ、お前が泣くと興奮するんだ」
顔を覗き込むと、濡れた眼が此方を見上げる。
言葉の意味なんか判っていないだろう。
「・・・知ってた?ん?」
泣かないで。
そう告げてそっと撫でる。怖いことなんか何にもないと教え込むように。
俺がいるんだから。
お前のお願いなら何だって叶えてあげるから、好きなだけ強請って。
それでさ。
忘れろ、全部。
そういうことを繰り返し注ぎ込むように囁き続け、トシの身体は俺に翻弄される。
「きんとき、いたい・・・」
痛い、と言ったのか、居たい、と言ったのか。
訊こうと思ったのに彼は泣き疲れて眠ってしまう。
痛いのか、まだ生きてここに居たいと思っていてくれているのか。
彼は眠っているから。
その眠りを破らないように、ひっそりと息をする。
明け方近く、朝が動く音がする。
それでも、遮光カーテンで造られた人工の夜の中で、ただ寝顔だけを見つめている。
腫れた目元が痛々しい。
唇をそっと這わせるとまた夢うつつに震えた。
大丈夫。
何もいらないじゃないか俺がいるのに。










傷を癒そうとする行為にはなぜ必ず痛みがついてくるのだろうか。

痛みを共有したいと沢山の人間、主に女性達が土方に繰り返し同じ事を聞いた。
土方は自分から進んでそのときのことを話したことは無かったが、
彼女達は素晴らしきネットワークによっていつのまにか人づてにそれを知った。

土方はそれに疲れてしまった。

何が起きたか話すということは、追体験に似たものであり、
痛みを伴う行為だった。

土方は少しずつ感情の回路を閉じ、誰に対しても薄い硝子の壁を作った。
硝子の向こうで薄っすらと笑みを浮かべながら、優しい女の子達に向かっておざなりに笑い、ときに気紛れなほど優しく接した。

土方は一人の人を長く愛せる種類の人間だった。
だからこそ喪失の痛みは少年期を脱していない土方の心を無慈悲な刃のように切り裂いた。
あんなに多くの女と付き合っていながらそれはない、
と彼を知るものは言うかもしれない。
それは土方がその相手を
「愛していない」にほかならないのだ。

彼女達の献身は少なくとも土方を不幸にはしなかった。
不幸にならないということと、幸福であると言うことは表裏の関係ではないということもまた、世の真理であるのだけれど。

それでも地球は回り、土方は愛されたし、これから先も愛される。

それは朝が来て夜が来るのと同じだけ確かなことだった。

確かなものなど何も無いと土方が思っているとしても。







18の時に付き合っていた年上のカウンセラーは土方の心にひびが入っている、と表現した。
個人で開いていたクリニックの、彼女のデスクの上には片手に乗るサイズのハート型の硝子の飾りが置いてあった。
それを細い指先で撫でてから、
その女性はそれを土方に見せた。

「……割れてる」

土方は硝子を見てそう言った。
土方は言葉を繕うことをあまりしない。
赦されるのは土方が土方であるからだ。
事実ハートには薄っすらひびが入っていた。
彼女は愛想のいい微笑を浮かべて頷く。
「ガラス細工の工房に行ったとき、見つけたの。売り物なのに割れてて、驚いたわ」
その人はそう言いながら指でガラスを撫でる。

「でも貴方の心みたいって思ったら、私以外が買ったらイヤだって思って買ってきちゃったの」

彼女はそう言って微笑んだ。
少女のように無邪気で、だからこそより一層、残酷な笑みだった。

そのせいで土方の脳裏には時折、心臓の形をした硝子のイメージが浮かぶ。
ひび割れは年々酷くなっていき、いつのまにか―初めからかもしれないが―かけらが無くなっていた。
いつ何処でなくしたのかは考えたくもなかった。

彼女を失った瞬間に、ひび割れた心から失われたひとかけら。

永遠に戻ってこないままだと思っていた。

そのひとかけらを目の前の金色の髪の男がはめ込むのだろうか。

土方は深い呼吸をした。


溺れる前には息を吸うと決めていた。








金髪の男は出会うなり、土方に言った。

「君の心の足りないところ、金さんが埋めたいな」

土方はそのとき目の前の男をじっと見つめた。
生まれた子どもが歩き出すくらいに長い長い「じっと」だ。

土方自身が生まれたての子どものように無防備になってしまったのかもしれない。
男は、金時は、そういうことに関しては天才だった。
人前で心がひび割れているというメタファーを使用したことの無かった土方は
まるで魔法にかけられたような心持で金時をぼうっと見つめ続けた。

どうしてか、何もかもを知られてしまったような気持ちになった。

それから、ようやくそれが今までに数え切れないほどに与えられてきた
「愛の告白」であることに土方は気付いた。
気付いても尚、土方は言葉を発することが出来なかった。
土方の幼子のように無防備な視線を金時は優しく受け止めて笑った。
何かいい匂いのする笑い方だった。
土方があどけない仕草でこくりと頷くと。
金時は心の底から湧きあがって来る愛しさに震えた。
抱きしめて護ってあげたくなるような究極的な無抵抗の姿だ。
外界から自分の身を護るものが何一つとして無いかのような、牙どころか乳歯すら生えないような可憐な生き物。
服従はおろか何故此処に生れおちたのかすら判っていないような無抵抗。
世界に投げ出されて蹲った柔らかな個体。

この子を一生愛しますから、世界の皆様、金さんにこの子ください。

所有権は世界には無いのかもしれないけれど、
土方自身は自己の所有権というものに固執していないようだったので、彼を愛している、
愛するであろう全てに向かって、とりあえず金時はそう宣言した。

何かを手に入れる代わりに何かを殺してしまうとしても、

それが世界の真理なら土方の代価に何を支払っても良いと金時は思ったし、思っている。

誰かが土方の心を踏み荒らすようなことがあると金時は苛立つ。
それは金時には珍しい怒りの感情であり、研ぎ澄まされた狂気だった。

可愛がりながら外に出して、優しく囁いた余韻をまとって、それでも帰ってくるまでに何かに必ず土方は傷ついている。
それが金時には時々どうしても我慢できない事柄に思える。
甘やかしている、それがなんだって言うんだろう。
土方は強くて脆いから大事にして当たり前なんだ。
愛情で誰かを護れるのならそんなに美しく安全なことは無いのに、
どうしてそれが出来ないのに愛は万能だと皆が思うのだろうか。

愛する人の涙さえ押し留めてあげられないのに。

ああ、でも泣く土方は綺麗だ。


それが土方自身を少しも救わないとしても。


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