月夜逢瀬




黒塗りの車が森の中を走っていた。
別荘地での逢瀬が予定より長引いたのは相手が久しぶりのそれに浮かれていたから。
喧騒を離れ、静かな森の中の豪奢な空間は非日常を感じさせるに相応しく、確かに開放的になっていた。
主に相手が。
口づけも抱擁も言葉も態度も身体を使った遊びもすべて。
土方はそれを特に煩わしくも嬉しくも思わずに、時間を同じように食いつぶしていく様を見ていただけだった。




深夜の澄んだ空気の中、土方は迎えの車の中で可笑しな影を見る。

車を滑らせた山崎は後部座席の上司が少し、声をあげたことに反応した。
「どうかしました?土方さん」
「いや・・・・・・」
土方は少し、言葉を彷徨わせた。
「けもの」
「え?」
今日の相手に何か無体をされましたか、いや、あなたにとってはすべてが無体であって、
しかし同時にそうでないのかもしれないけれど。ケダモノ、獣。男は皆そうだ。
などと馬鹿なことを数瞬考えてから山崎は自分で哂う。

馬鹿か俺は。
森の中ならば獣くらいいるだろう。
有害獣でも見たのだろうか。
土方さんは夜目が利くから。

ゆるやかにブレーキを踏むが、いつでも走り出せるようにサイドブレーキはそのまま。
「有害獣の類ならハンターか、猟銃会に応援要請をしますか」
振り返って山崎が言うと、美貌の上司は首を振る。
「獣、だが、人に見えた」
「人、ですか」
少し疲れているのか、上司は空気だけで肯定する。
「あ、危ないですよ!」
止めるまもなく降り立った上司は、森の奥を見た。
徐々に、近づいてくる二つの光。
山崎は慌てて、念のため積んで助手席に待機させていた猟銃を片手にドアを開け放つ。
土方は光る二つの目玉をじっと見て、声をかけた。

「おいで」

こどもに呼びかけるような優しい声音だった。
いつも思うが、どうしてこの人はこんなにも穏やかな声が出せるくせに露悪的に振る舞うのだろう。
まるでこの世のすべてを憎んでいるかのように。

よたよたと、獣が近づいてくる。
それが月夜におぼろげに像を結べば。

隠密に長けた山崎の目には色濃く。
なるほど、人間の体から、濃く獣のような体毛が生え、総てを覆っているように見える。
虎か、豹か、あるいは鵺。

類人猿、などと山崎は考えた。

だが牙は鋭く、天人にしては理知的でない。
局長だったらどうしよう、などとばかげたことも思ってみた。
ずどんと試しに撃ってみようかなぁ。
あ、俺ってば。

闇夜に。
獣は吠えた。

山崎が猟銃を向けたが、土方が片手で制した。
ゆっくりと土方が近づくと獣はぐるぐると凶暴に喉を鳴らす。
土方が足を止めた。

「…山月記か」
土方が呟く。

ああ、そんなものだ、と肯定する声が背後からして、山崎と土方は直に振り返る。
直前まで気配がしなかった。
土方は眉一つ動かさなかったが、山崎はあーあ、と口の中で呟く。

…鬼が、歩いてくる。

直に判る。
角が長く、それでいて湾曲し、頭の上でぐにゃりと嫌な形をしている。
二つの目玉が顔の中央でぎょろぎょろと落ち着きなく。
ねっとりとした髪が池から上がったばかりのように顔に張り付いている。
腕は鱗の様な物に覆われ、土気色をして唇は死人の色。
山崎は頭の中でもう一度、あーあ、と呟く。
獣をぎょろりと見て鬼は。
「…そいつはもとは人間だったが、妻子を失ってそんなふうになっちまったんだ。
獣になっちまったせいで、妻子の墓も作ってやれない。それでこうして森の中で泣いてるのさ」
死人色の唇からぶっきらぼうにそれだけ言うと山崎を睨んだ。
「おまえ、俺が醜いと思ったろう」
鬼は山崎を睨みつけて低く呪詛のように言い、横で何も言わない土方に向かって鼻を鳴らした。
ぴくりと山崎の筋肉が反応する。
土方に無遠慮に近づく鬼に山崎が間に入るが、鬼はぎりぎりの位置で立ち止まってすんと匂いを嗅ぐと笑う。
嘲る声は耳障りな金切り。
「男の癖に女の真似事をしてきたのか」
山崎が眦を吊り上げると鬼が嘲笑うように続けた。
「雌の匂いがするぞ」
「…!」
その瞬間には意外にも沸点の低い山崎が動いて。
セイフティーをはずしてあった猟銃の銃口が向けられても、鬼はふんと鼻で笑った。
「下男の癖に女主人の番人のつもりか?相手にもされないんだろう?」
山崎を哂う鬼に、土方は変わらない顔色のまま、山崎を抱き寄せ、荒っぽく呟く。
「これは俺の狗だ」
鬼が、その傲慢な物言いと唐突さに押し黙る。
あっさりと山崎を解放した土方は次には邪気無く首を傾げた。

「ひとであったのに、ひとでなくなったのは妻子のためか」
土方が鬼と獣どちらにともなく問うと、獣が唸った。

少し、考えるような仕草をした土方は、やはりどちらにともなく呟いた。
「妻子の名を、教えてくれないか。墓ならうちで手配しよう」
女やこどもが冷たく転がっているのは哀れをもよおしすぎていけねぇや。
ぽつりと零す。
獣が、ぐうううと低く唸った。
困っているような哀しげな鳴き方だった。
かわりに鬼は沈黙したが、土方は今度は鬼に向かって訊ねた。
「おまえ、この男の妻子の名を知ってるんだろう?」
獣の代わりに人の言葉を操る鬼に。






三日後、森の中で約束した時刻、鬼と獣は現れた。

山崎が護身用に構えた武器には目もくれず、獣は土方に近づくとその足元に伏せた。
鬼は少し離れた所で立っている。
「・・・おまえの妻子の亡骸は手厚く葬った。墓には薄桃色の花を沢山供えてあるから、すぐ分かるはずだ。
ここから一番近い寺を知ってるか?」
獣はおうううんと鳴いた。
知っている、と言ってるよ、と鬼はぽつんと言う。
土方と獣は何となく意思の疎通が出来ていたが、それでも鬼に礼を言うと続けた。
「あの辺りは夜なら無人だ。寺には話を通してあるから、坊さんたちはおまえを見ないフリしてくれるそうだ…
月夜ならよく見えるだろう?二人に逢いに行ってやれ」
土方は静かな声でそう言うと、起き上がった獣の頭を少し撫でた。

かわいそうに。
かわいそうになぁ、おまえ。

そう掠れた声で呟くと獣はおぉんと鳴いた。
何度も何度も、おぉんおぉんと鳴き叫びながら土方の胸に何度も何度もそのこうべをすりつけ、
まるで赤子が甘えるように、罪人が赦しを乞うように、拙い動作で鳴いた。
土方はしばらく、その頭を、黒々とした不気味な毛で覆われた身体を、優しく撫でてやった。
獣は鋭い爪の生えた前足で土方の着流しに触れ、おおおぉおん、とまた鳴くと、
名残惜しげに離れ、その場に静かに伏せた。
謝意を表しているのだろう、暫くそうしていた。




それから。
獣がゆっくりと、寺の方角を目指して消えると、土方は鬼に向かって問う。
「足が痛いんじゃないのか」
鬼は驚いたように目を見開いた後、ぎこちなく頷く。
「池の傍に行くか?」
鬼は首を振った。
「水の中には戻れないのか」
土方が問うと鬼は少し黙った。
「そういう制約だ」
「……そうか。だがアンタ水の精の類だろう」
土方がそう呟くと、鬼はまた頷く。
「土の上はいけない、喉が乾くし、足が痛む、肌は割れそうになる……」
「人魚姫だな、アンタ」
土方が静かにそういうと、鬼は笑った。
初めて笑った。
「可笑しい人間だな、お前は!俺はあの男に沢山本をもらったから、知っている。人魚姫も知っている。あの男の子どもの本にあった。綺麗な女だ。とても俺とは似つかない。泡になって消えちまう、最高に哀れで綺麗な女だ……」
「水を持ってきたが、飲むか?」
静かに土方が問うと、鬼はまた驚きに赤黒く濁った目を見開く。
「あ、ああ、喉が乾いている…」
ひらりと片手をあげて。
「山崎」
「はいよ」
呼ばれてすぐに車の中からミネラルウォーターのボトルを出すと、土方に手渡す。
土方は鬼の長い爪の生えた手元を見て、蓋を開けてから渡してやる。
鬼はそれを勢いよく飲むと、息を吐く。
「…もう無いか」
「あるぜ、好きなだけ飲みゃいいさ」
土方はそう告げると、蓋を開けてやる。
それから鬼は身体にそれをかけて、息を長く吐いた。




それから。

「おまえ、あの男の妻子が何故亡くなったのか知っているんだろう」
土方が静かな声で告げた。

山崎は硬い表情で鬼を見据える。
鬼は。
青ざめた肌をさらに土気色にしながら。
震える声で頷く。
「……あぁ」

空気が嫌な色をしていると山崎は思って少し身構えた。
何があっても、このひとを護らなければいけない。

「俺が山月記、と言ったとき、おまえは肯定した」
鬼がまた、少し震える。
「それは、おまえ自身の話でもあったんだろ?」

気づけば辺りが一面真っ暗。
「泣いているのか?」
土方がぽつりと問う。
鬼は黙ったままだ。

風が突然強く吹いた。
まるで悲鳴のように、びゅうびゅうと森が揺れた。
誰かの慟哭だろうか。

「……あの男が好きだった」
鬼は静かに言った。
土方がそうか、と吐息のように零す。

「……妻子が憎かった」
今度は土方は何も言わなかった。
ただ静かに、目を一度閉じ、それから開く。
美しい長い睫が蝶の羽ばたきのように動く様を鬼の良く見える目に晒す。
ただ無意識に美しい仕草だった。
長い睫も大きな澄んだ目も、艶やかな黒い髪も透き通る白い肌も何もかもが同じく無邪気に美しくある。
夢のように、現のように、夢幻の儚さは、しかし絶対的な生命力と共に在った。
鬼とも修羅とも渾名される男の身体に満ちる命。
それが鬼の琴線に触れた。
「あの男が好きだった、ただそれだけだったのに」
鬼はそれから唇を噛み締めた。
「ぁ、あああの女、あの、あのおんな!」
鬼はごうごうと鳴る風の様に激しく呪詛を吐く。
「俺を醜いと笑ったあの、あのおんな、あの……」
鬼は言葉を詰まらせたが土方は先を急がせない。
鬼の感情の高ぶりと言葉をそのまま待っている。
ただ静かに。
鬼が比例するように激高していく。
「ぁあああ!!俺はな、ただあの男と話がしたかっただけだ、あの男が好きだったんだ、ただそれだけで、見ているだけでも良かった、あの男が俺を見ても、鬼と知っても、拒まなかったから……優しい男だろう?優しい男だから獣になっちまった!あんな女のために!!!ただ俺は話をしに、月が出る夜に会いに行っていただけなんだ……」
鬼は一息にそれだけ吐き出すと、やっと押し黙り、ひゅううっと喉を鳴らした。
牙がカチカチと音をたてている。
それでも土方は静かに言葉を待っている。

「それを、あのおんなに知られた……」
鬼は哀しげな声で言った。

「俺をな、指差してあの女は化け物だと罵った。俺が、醜い化け物だと!」

「わかっている。俺は醜い化け物だ。だが、俺が何をした?俺はただ、あの男と話がしたくて、ただそれだけで……」

「あの男は、もう会えないと言った。妻が怯えていると。俺は、おれは……」


鬼が激しく息を吐いた。

よるのやみにつまこのしたいがころがってゐる

諳んじるほどに読んだ訳ではない話が頭を過ぎるのは偶然だろうか。
ふと、浮かぶ女の死体と子どもの亡骸。
土方はその二つを思って、少し、目を伏せた。
鬼も、土方を良く知る山崎すらも驚くほどに、その仕草は儚げで美しかった。
本人が制御しきれていない、哀しみへの冷徹なおもての僅かなほころび。
瀕死の蝶の羽ばたきに似ていると、いつだったか他人が評した優美で無垢な。
息を呑んだのは鬼か、人か。


「…なぁ、俺は醜いだろう」
鬼はふてくされたように呟く。
石ころでも蹴り飛ばしそうだった。
人間くさい仕草だと山崎は思う。
どちらが魔性かわからない。
ぐちちちちち、と鬼の牙が鳴った。
土方が音に反応して、美しい睫毛を少しだけ瞬かせた。
不思議な音だと思っている以外に、特に侮蔑の色は無いのが山崎にはわかって微笑ましい。
愛しい人だと心底から思う。
だが威嚇音だと本能が告げている。
そのまま山崎は唇を醜さ以外の理由で歪めた。
耳に不快、音に奇怪。
さて悪趣味以外に賛辞が思いつかない。
悪辣に悪びれない山崎の脳裏の遊びも鬼には知れているのかもしれないが。
鬼は山崎には目もくれず、まるで射殺しそうに土方を見た。
そこに、すべての憎悪が詰まっているとでもいうかのように。
「お前くらい美しければあの男も俺を受け入れたかもしれない」
土方は何も言わず鬼を見る。
深い目の色には何の感情も浮かんではいない。
土方にとってそれは違う世界の話だからだ。
鬼は続ける。
「おまえくらい美しく生まれていればよかったのに。こんな風にあの男に疎まれることも無かったのに」
鬼は呪詛のように繰り返す。
その髪も、目も、唇も、肌も。
身体も、おそらくすべてが、お前には当たり前なのだろうが。
いつだってそういう形は真に望まないものにばかり与えられる。
声が枯れるまで泣き叫んでも与えられなかったものを無闇に弄んで生きているだろうに。
お前が美しいのはお前が傲慢で残忍な化け物である何よりの証であるというのにそれでも。
人は形に弱い。
愚かで淫らな生き物だ。
愚かで醜く、矮小で淫らな肉塊。
だがその肉塊すら、俺を醜いと哂う。

ぐわんと空気が揺れて風がびゅうびゅうと泣く。
艶のある見事な黒髪が舞ったが土方はそれを押さえもせずにただ立っている。

すべてどうだっていいのだというように。

それがさらに美しいので。
風が気に入った髪を愛撫しているかのような淫靡な光景に思えて。
鬼はぐるぐる首を回す。
首の滑稽な演舞にも、おどろおどろしい髪は風に舞わない。

泣いているのに、笑っているように見えるのが哀れだった。




鬼とはそういうものなのかもしれない。



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