幻想のオペラ




何故そこに行き着くのだ。

土方の細い手首がきしりと音を立てる。
男の太く強靭な腕が土方の身体を軋ませている。
身体ごと圧せられた畳の上で土方は静かに思考を巡らせていく。
見あげると一面によく見知った男の見慣れない表情。
「トシ、お前は騙されているんだ」
繰り返しそう言った上司は泣きそうに顔を歪ませてから本当に恐ろしい男の顔をした。
土方はそれに言い募る言葉を持ち合わせていないかのように沈黙した。
事実持ち合わせてなどいない。
情けない口だ。
情けない言葉しかない。
寒いという皮膚感覚に似ている。
空気が凍るようだ。
今は何時だろうとどこか冷静に土方は思った。
山崎が呼べばくるかも知れないとも思う。
事実勘の良い山崎はすぐさま部屋に駆けつけた。
手には不似合いなアイスピックが握られている。禍々しくも美しい造形物。
土方に出す飲み物のために氷を砕いていた山崎は、そのピックの鋭利な先端を土方を組み敷いた男に向けるべきか少しだけ考えて首をふった。自分で自分を諌める種類の品の良い首の振り方だ。その動き、わずか数秒。
「副長、お客様です」
感情を押し隠すのが病的に巧い山崎が硬質な声でそれだけ告げると、すぐさま近藤は土方の腰を片手で抱いてやんわりと起き上がらせた。いたわる動きで慈愛すらあったが山崎の目にはそれは自愛としか映らない。
土方がどう思っているのかは流石に山崎でもわからない。
ああ。
「…すまないな、トシ」
素直にそう言った近藤はもういつもの近藤だったので、土方をそれ以上引きとめたりはしなかった。
起き上がった土方の髪の乱れをそっと近藤が直した。
震える指を悟らせないようにしながら結局失敗しているのが近藤らしいと土方は思った。
それから着衣の乱れをすぐさま山崎が直し、土方を部屋から逃がす。

「……トシはいつからあの男と一緒だったんだ?」
お前は知っているんだろう。そういう種類の声で山崎に近藤は言った。
事実土方の事で山崎が知らないことはほぼ無い。
土方の事で近藤が知っていることは驚くほど少ない。
「………副長のプライベートに口出しする権利はありませんから」
暗にお前もだろ、と山崎は含めたが近藤は眉を顰めた。
「俺達は家族だろう?」
「それが?」
それが何だって言うんだ。あの人のことでアンタが知らないことなんか山とあるじゃないか。
「俺はつらい。トシが俺に隠し事をしている事もだが、あんな男がトシを幸せにできるとは思えない」
「そうでしょうね」
でもアンタだってあの人を幸せに出来やしないじゃないか。
「トシが傷つくのは耐えられない。それも俺の知らないところで、あんな男の為に」
「……あんな男のため」
笑わせないでくださいよ。あんたの知らないところであの人が何かしているのが気に入らないと素直に言ったらどうなんだ。あの人が組と自分に秘密で何かするのが気に入らないって素直に言えよ。でなきゃ土俵にだってあげられないんだよ。
「……他の可能性は考えないんですね」
「なにがだ?」
「いえ…でも、副長はそろそろ付き合いをやめようかと思っているご様子でしたよ」
「そ、そうか」
不意に山崎が投げかけた言葉が面白いほどに近藤の顔を安堵の色に染めた。
「迷ってらっしゃるみたいでした」
「………そうか」
馬鹿じゃないか。
何で旦那の事しか頭に無いんだ。沖田隊長だってもっとちゃんと見てる。
他の男のことには何で思い至らないんだ。
姐さんが旦那に惚れているから?
だから旦那の事には意識が回るわけ?
アンタ本当の馬鹿なんだね。
馬鹿に本当のことなんか教えてやるわけないだろ。

旦那を本当に愛してるから他の男との付き合いをやめようか迷っているんですよね、あの方は。
だから。
俺は嘘は言ってないですよ、局長。


触れられた瞬間の違和感に僅かに動揺して身体が震える。
それを指摘する相手ではなかったが、土方の唇からは溜息が零れ落ちた。
嫌悪ではなく違和感。
行為の相手を過去の誰かと比べるのは好きではなかった。
人と抱き合うその瞬間だけは、その相手のことしか考えないほうが好きなのだ。
「…誰を、思い出しているんだい」
真摯な眼差しが注がれたことに罪悪感、というほどのものでもないが、が呼び起こされて僅かに眉をひそめた。
いつから自分は。
「…気になる仕事がある、から」
下手な嘘を吐いた。
何時もはまわる口もこの程度の事しかいえないようでは老獪な男を騙せない。
事実看破しているだろう相手はしかし、
「…そうか」
そう言ったきり、ゆっくりと身の内を灼く動きを再開した。
やさしさに偽りはないと思ってしまうのはこういうときだ。
押し殺した声で翻弄されながら、意識は深い闇の底に沈んだ。



人払いがされた後の広く豪奢な部屋で思考は沈殿する。
また見失った。
些細なことなのに、どうして。
そこまで考えてから静かにゆらめき。
眩暈。
音も無く、扉は閉ざされ、飾り紐を引かれたカーテンが波打つ。
途端に、部屋の中に満ちる空気。
吐息さえ音がしそうに静かだ。
伸ばされる指先に眩暈。
今日は、泣かないでいられるだろうか。
することは違うのに、
いつも考えることは同じ。
やはり眩暈が、する。
目で追った先には重厚なベッド。ぼんやりと、考える。
曖昧になる。自分と相手の輪郭が。
それから笑い出したくなる。何故だかわからないけれど。
輪郭も感覚も曖昧になるから、好きになってしまうかもしれない。
きっと好きになってしまう。
また眩暈。
できるだけそっと、息を吐いてみた。嘘のようで笑えてしまう。
呼吸の仕方は意識すればするほど不自然になり、愛の言葉もやはり同じ道を辿る。
付き合っている人間が居るからそのひとりだけしか好きになりたくないのに。
たとえ一瞬でも。
裏切りたくない。
揺らいでしまう。
眩暈がする。
好きになっている。
この相手のことも。
「・・・・・・・・・疲れているのかい」
音を拾った耳と、脳が意味を租借するまでには一瞬の間。
軽く首を振る、が眩暈。
身体と意識が連動してゆらりと揺れる。
「………今日はやめにしておこうか」
優しい申し出に頷いて、促されて座る。

どうしてだろう。

「なにか辛いことがあったのかな」
独り言のように囁かれたそれはまるでささやかな福音のように土方の目の前におりる。
「つらい…?」
思わず声に出してしまった。思考が遠のく。
「気づいていないのかな」
わからない。辛いのか?誰が?
「泣きそうな顔をしているよ、幼女のようだ」
そっと、頬に添えられた手に目を見開く。
泣きそう?
嘘だ。泣いたりなどしない。
「辛いことが無くても、泣いていいと思うな」
思考を読まれたかと思って呼吸が止まる。
笑った顔が優しい。声はもっとずっと優しく静かにしみこむ。
「良い子だね」
かわいそうに、そう男は言ったが、何が可哀想なのか少しもわからなかった。
赦されるなら、ただ死者のように、深く深く眠りたいと思った。
男の言う童女のような無邪気さはあちら側に置いてきた。


結局この世は嘘ばっかりじゃねぇか。
サディスティックに甚振るよりももっとずっと怖いものがあるじゃないか。
気づかないならサドを語る資格は無いぜ。
言っても仕方ないから言わないけれど。
なぁ、愛しているなんてそんなにカンタンに言うな。
俺を騙す口調と同じ声で。
ただの嘘だと思ってしまうから。
くるくるとまわる思考に振り回されながら土方は眩暈に打ちのめされながら掬い上げられる。

目元に小さく笑みを浮かべわずかに強張った頬で軽い拒絶をする。
土方はそうやって戸惑いを押し隠して足早に通り過ぎる。
鮮やかな残像だけが残された相手にしてみればたまらない。
別れ際、いつもは厳しく自身を戒めているはずの老練な男は土方を強く抱きしめたまま
うつむいた。
「求められているのか、拒絶されているのかどちらなのかな」
どちらでもないのだと気づいたのは土方を本当に愛するようになってからだ。
「私は、君を愛するに足らない男なのかもしれないね」
自嘲気味に呟くと男は土方をきちんと送らせた。
見送る胸中になにか言いようの無い不安が過ぎった。
大切な物が知らないところで少しずつ損なわれていく感覚に似ている。
長く生きるほどに親しくなる感覚。
心理的に成熟しきった男はそう知っていたがあえて見ないふりをした。
男は簡単に泣いたりしてはならないからだ。
もう逢わないといつ彼が言い出すか恐れているなんて滑稽すぎて喜劇にすらならない。
若く美しい人間の未来を汚してはいけないことくらいもう十二分にわかっている。




近藤勲は重々しく裏口の前に立っていた。
正確には土方を待っているのだ。
黒塗りの車が裏口につけられ、近藤は降り立つ土方を出迎えた。

いつかばれることだった。
山崎は口の中でぼそりと呟く。
ただならぬ空気に屯所は静かだ。
運転手を務めていた山崎はわざとゆっくり降りると土方のために後部座席のドアを開けた。
降り立った美しい上司は二度瞬きをした。
困惑している時の仕草だ。
山崎は土方が思うより動揺していないのに安堵する。
珍しく彼女の所へ行っていないんだな。こんな日に限って。
察しが悪いくせに、勘が良い。
失策だった。
珍しく山崎は歯噛みした。
よく調べたと思っていたのに。
土方の心労を増やしてどうする。

まぁ、でもどこかでこうなることを期待していたのかもしれない。
心の隅で黒々とした何かが声を高らかに宣言するのを山崎は咎めない。
こういう男なのだ。

「・・・部屋に、来てくれないか。着替えてからで良い」
近藤の硬い声に頷いた上司は美しい顔を崩さず部屋に向かう。
影のように付き従いながら山崎は今後の展開を考える。
屋根裏への道筋も。
沖田隊長はどうしているかな、とちらっと考えてみた。
ああ、俺ってやっぱり悪趣味。

「言ってしまいたい」
不意に足をとめた上司はこちらを振り返る。
「・・・」
「虐めてみたいからな、あの人を」
美しい上司は少し病的に笑った。
「構いません」
「・・・お前は」
「貴方の味方ですから、お好きになさってください」
「・・・・・・冗談だ」

嘘。言いたい。言ってしまいたい。傷つけたい。あの人を。
切って返す刀で自分が傷つくことはもうない。
ただ破壊衝動に似ている。傷つけたい虐めてやりたい。泣かせたい。
いつもそうだ。ギリギリで踏みとどまってきただけで本当は。
何もかもぶちまけてぐちゃぐちゃにしてやりたい。
泣き叫ぶ顔を見たい。
そんな顔きっとしないだろうから、困惑して嫌悪されてみたい。
そしたら息が吸える。
嘘。ただの被虐趣味。
窒息してしまいそうなのはもう過去の話。

「なぁ、あの人はまた誤魔化されてくれるよな」
そう言って土方は目を閉じる。
視界一面鮮やかに銀色。
愛していると言われたから。
それだけで息ができる。



そしてくるくる繰り返す。




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