踊りましょうか、お嬢様
腹が熱い。
腕が熱い。
ぼんやりと高杉は感知した。
傷が熱を持ち、出血の所為か思考は覚束ない。
己の腕を見れば酷い有様で、動こうにも足は既に熱の塊だ。
朦朧とする意識を辛うじて繋ぎとめているのは皮肉にも痛みそのもの。
痛覚が意識に訴えかけている。
だが動けないのではこのまま死ぬしかない。
死。
その単語を思い浮かべたとき、わけの分からない感情で頭の中が埋め尽くされる。
人はいつか死ぬ。
それだけは確かだ。
だが、いまがそのときとは思えなかった。
成すべきことも成せずに犬のようにくたばっていった奴等を何人も見てきた。
俺が。
この俺がそうなるのか。
そんな馬鹿な話があるか。
だが、足は動きそうに無く、身体は死に向かっている。
そんなでも聴覚は鋭敏だから、足音に自然と眉根が寄る。
ささやか過ぎる音。
人の気配は徐々に近づいてきていたが、助けとは思えなかった。
神や偶然を信じるには地獄を見すぎた。
逃げ込んだ先はうっそうとした草に覆われてはいたが、血を辿られていれば仕舞いだ。
犬のように、死ぬのか。
犬死。
この俺が。
高杉晋助ともあろう男が。
笑おうとして、軽く咳き込んだ高杉の前で、足音がやむ。
落としていた視線を上げた先で。
こんなときでもなければ、笑いかけていたかもしれない。
まるで花精のような幼い少女が、高杉をじっと見つめている。
銀糸を織り込んだ紅い着物に、艶のある黒髪を頭上でひとつに高く結って、人形のように行儀良く、手には小さな手提げ。
ぽっくりを履いた可愛らしい足元まで目で追うと、また視線を戻す。
白い肌に整った目鼻立ちは幼児期特有の独特の透明感がある。
一瞬で、滅多に見ない綺麗な子どもだ、と認識したが、相手は高杉をどう認識したのだろうか。
黒く大きな眼が零れ落ちそうに見開かれている。
高杉が片手で抱き上げれば宙に浮くような華奢な身体を、酷く緊張させている。
声を上げられなかったのは僥倖だ。
女と見れば反射のように口説く坂本の馬鹿ほどではないにせよ、
桂のようにお堅い身分ではない。
齢17にして手の早いことで有名だった。
好みだと思った女は残らず口説き落としてきた。
断られることも無かった。
が、さすがにこんなにもいたいけな少女に手は出そうと思わない。
12になるかならないかだろうか。
男にも女にも、性別の境が曖昧な年齢がある。
そういうときの生き物にまで、手を出したいとは思わない。
…あと5年経っていたら、わからないが。
あまり愛想の無い子どもだった。
だが、恐怖も無い様だった。
媚びる生き物は好きではないから好ましかったが、
恐れを知らない生き物は愚かだ。
愚かな生き物は好きではない。
この少女は、どうだろうか。
高杉の思考など知らぬげに、少女は思案するように愛らしい顔を少し傾けた。
それから少女は小さな手提げの中から、花模様の可愛らしい筒を出した。
中でたぷんと、おそらく水が、音を立てている。
水、そう思うと急に喉の渇きを感じるのだから人間は単純だ。
見つめる先できゅぽ、と小さな音とともに蓋が開けられた。
差し出す手は自然で、高杉はゆっくりと半身を起こす。
「……くれるのか」
少女はこくりと頷いた。
まさかこんな幼い子どもに毒を盛られることも無いだろう。
一応そう言い訳し苦笑しつつ筒を傾けた。
予想に反して中身は香りの良い茶か何かのようだったが、乾いた喉には心地良くしみこんだ。
少女は黒々とした大きな眼で高杉をじっと見ていた。
その視線があんまり真っ直ぐなので、不思議と凪いだ心持がした。
打算も計算も媚びもない、そこにあるだけの視線だったからかもしれない。
無垢な子どもが死にかけた犬や猫を案じる視線だ。
ああ、そうか、恐怖など湧かないのか。いや、恐怖どころか。
高杉はまた喉で笑いを殺した。
犬死する気は無かったが、自分は相当酷い有様なのだろう。
この生き物は目を離して大丈夫?とでもいうかのように少女の目がじっと此方を伺っている。
「悪ィな……」
そっとその小さな手に筒を返す。
少女はふるふると首を振った。
髪を結っている紅い紐の先で飾りの鈴が音を立て、ちりん、ちりんと鳴った。
それ以外に少女が立てる音は無い。
「お前、名前は」
尋ねたが少女は首を振った。
驚いて口がきけないのかと思ったが、どうやらしゃべれないらしい、
と高杉は思い至った。
呼応するように、
ちりん、と鈴が鳴った。
声を出せないこの少女のために、存在を知らせる目印としてでもつけているのだろうか、
紅い紐の先の凝った細工の美しい鈴は控えめな可愛らしい音を立てる。
少女が静かに高杉の前に座った。
大胆に投げ出された足は、裾から覗いている足袋に包まれたくるぶしまで、折れそうに細い。
高杉の視線に構わず、持っていた紅い手提げをもう一度覗き込み、膝の上に豪快にひっくり返し、
少し眉を寄せた。
中から出てきたのは、髪を結う為なのだろう、付けているものと色違いの鈴のついた飾り紐、
細々とした玩具や綺麗な有平糖の入った瓶と、白い布…刺繍の入ったハンカチか。
いかにも少女の持ち物といった感じのそれに、思わず高杉は痛みも忘れて笑う。
少女は眉を寄せたまま、ハンカチを唇で咥え、びっと引き裂く。
呆気にとられる高杉の前で少女はそれを高杉の、まだ血を流し続ける腕にくるりと巻き、縛る。
意外にもしっかりとした力で結ばれて、思わず顔を顰めたが、
止血しようという意図がわかっていたので黙ったまま、少女の成すがままになった。
真剣な表情に甘さは無く、ふと、この少女は見かけほど幼くないのかもしれないと感じた。
1枚のハンカチで、最も酷い裂傷を負っていた腕と足に止血を施すと、
少女は高杉をまたじっと見た。
少女の唇が僅かに震え、音を出すかと思われたそれに少女自身が躊躇うように首を小さく振る。
それから、そっと。
小さな手が高杉の手を掴んだ。
開きっぱなしの手のひらに、落とされたそれがちりんと音をたてる。
鈴の付いた飾り紐を渡されて、流石に、高杉は狼狽する。
可愛らしいそれは如何にも高価そうだ。
「これは、お前の大事なもんじゃねェのかよ……」
人の気配に顔を上げた高杉とほぼ同時に少女は反応した。
意外にも気配に聡いようだ。
すっと、驚いたことに少女は片手を高杉を庇うように翳した。
近づいてくる素人そのものの足音には殺気など勿論無い。
現れた初老の男は少女を見てほっとしたように声をあげた。
「お嬢様、良かった、こちらに…」
男は高杉を見て息を呑んだ。
それから、男は高杉の手の中の飾り紐を見た。
「宜しいのですか、あれは、大叔父様がお守り代わりに……」
少女は首を振ると、男の袖をそっと掴む。
ちりん、と小さく音がした。
「……帰りましょう、お兄様がご心配なさっています」
見ないフリをしてくれるのだろう、その男は静かにそう言い、高杉から視線を外す。
賢い少女は高杉を振り返ることなく、大人しく男に手を引かれていった。
見送る後姿は小さい。
手の中の、お守りだという鈴は、やはり小さく可愛らしい形をしている。
利発な少女だ。
胸の奥にぽっと小さく灯りがともるような気がした。
良い女になるだろう。
それも極上の女だ。
もし、もう一度逢うことが出来たなら、必ず口説いてしまおうと勝手に決めた。
間違いなく、誰もが振り向くような、目立つ女になるであろう少女。
名前も判らなかったが、必ず探し出せるという確信があった。
だからまず、俺は。
この地獄で生き残らなければ。
少女に貰った小さなお守りを、そっと握り締めた。
痛む足を引きずるように何とか、拠点のうちのひとつに帰り着き、
高杉は驚く仲間達に迎え入れられた。
「良かった、皆案じていたのだ。よく無事だったな」
桂はそう言い、高杉はそれに曖昧に頷く。
止血されていた腕に視線を落とし、不思議そうに桂が言った。
「自分でしたのか」
「………未来の嫁さんにやってもらった」
にやりと笑うと桂が眉を寄せた。
「婦女子に、あまり軽々しく手を出すものではない」
素行の悪さを咎める口調で言うが、知ったことか。
「馬鹿、未来のっつったろ。まだ子どもだ」
桂が何か言う前に、
「お前ロリコンだっけ?毛も生えてねェガキ相手にして楽しいわけ?」
珍しく会話に入ってきた白髪頭が、これまた苛苛する怠惰なツラで俺を見た。
ムカついたので横っ面をぶん殴ろうとしたが軽くかわされた。
傷に響くから暴れるな、と怒鳴られたが構うものか。
あの少女との記憶は自分だけの大事な出来事だ。
血の付いてしまった飾り紐と、その先の小さな鈴は、年を経て少し色褪せたが、
歳月を経るほどに、一層大切なものになった。
元々モノにも人にも執着することが少ない高杉の、数えるほどしかない、「大切な宝」。
それから高杉は少女の為に、心の中に小さな鍵のかかる箱を作って、
そこにあのときのことをそっと仕舞い込んだ。
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