恋文
蜂の一件以来すっかり嫌になっているが、基本的に寺の和尚が俺を呼ぶのは珍しい。
寺と言ってもひとつの宗派の総本山ともなれば各地の寺から住職が集まる。
教学部長や財政部長といった肩書きの坊主にはその俗っぽさに正直驚くが、
この規模の寺院を管理するにはそれなりの組織が必要なんだろうなってのは俺もわかる。
ナンにせよ、金のあるところには事の世俗は無関係なんだろう。
「変わった失せ物を探しておりましてな」
品の良い笑みと共に和尚は俺にそう言うと茶菓子を勧める。
遠慮なく頂いてから、本題の話をする。
「失せモンって、何か無くなったわけ」
偉い坊主らしく品良く言っているが様は盗人でも入ったんだろうとあたりをつける。
お巡りさんでも呼んで、と言いかけて気付く。
基本的に寺の中は不可侵で外部の圧力の介入は好まないだろう。
「こちらへ」
和尚が先に立ち、俺はその後を黙ってついて行く。
デカイ扉の前に他の坊さんが待っていて、俺らの為に重厚な扉をあけた。
うず高くつまれた本の山を見上げて思わず溜息を吐く。
「大したもんだな」
寺の財産の一部といってもいい、学術的にも貴重な書物や絵画が並び、次代の重みを感じさせた。
こりゃ宝物庫と呼んだほうがいいんじゃねェだろうか。
「この中に失せ物が」
「あぁ、本でも無くなったん?それとも絵?」
応えず和尚は静かに手元の本を開く。
それは月日を経た紙特有の匂いを発していたが、それよりも中身に釘付けになった。
一瞬、虫食いかと思った。
「んだ、こりゃ」
「……ご覧の通り、文字が消えております」
和尚の手元の本からは、確かに不自然に文字が抜けていた。誤植、というのともちょっと違う。
「 う者 を でるやうに己が を し……」
初めからすかすかに書いていったのだろうと思われるくらい、字間の空白は白かった。
「なんだこりゃ、意味わかんねェ」
とりあえず朗読してみたが意味は通じない。
ぱらぱら捲っていくと次々とそんなページに当たる。
乱丁だか落丁だかにしたってこんな、一つ一つのページから虫食いみてぇに文字が消えてるなんてどういうミスだ?
やっぱ最初っからこうして書いてあったんじゃねェのか。
それか。
「変な印刷ミス?」
「……坂田殿、此方はすべて古き時代から伝わる手書きの書物。
中には信者の方々からの寄贈の品やわが寺院の僧侶が手慰みに書いた物もありますが、
生存している者に確認したところやはりこのような抜けはありえないと申しております」
ならまるで虫食いのように文字が消えているということだ。
和紙から墨で書かれた文字を消すことなんて出来るんだろうか。
イタズラにしちゃぁ手が込んでやがる。
と、銀時は素朴な疑問を口にした。
「何て文字が抜けてるわけ」
「愛、恋、情、想、美……そういった類ですね」
「随分とまぁ気障ったらしいことで」
「お探しいただけますかな」
「探すったってよ………」
聞いたことねェよ、消えた文字を探せなんて。
第一ホントに消えてんのか?
「お疑いか」
ぎくりとする。流石坊主、勘の鋭さは侮れねェ。
「実は私も可笑しいと思いまして、ちょっとした仕掛けを」
「仕掛け?」
和尚は一冊の本を開く。
付箋の付けられたページを開くと、やはり虫食いのように文字が抜けている。
「ここに丸をつけて文字を囲んで見ましたら、丸の中の文字…恋という字が綺麗に失せております」
「書き込んじゃっていいわけ?」
「これは我が寺の僧侶の日記ですから」
それから、と言うと和尚はダメ押しのように、
「あと、このページを写真に残してみまして、ちなみにこちらが数日前に撮ったものです」
懐から取り出された写真には、確かに抜けは無い。
「一体何事?」
「さぁ、とんと判りかねます」
突っ立っててもしょうがねぇんで、結局また部屋に戻る、と。
「和尚、少しいいか」
知りすぎた声が控えめな言葉と共に障子の向こう側から聞こえ、思わずどきりとする。
「どうぞ」
すっと襖が開く。
「…客人なら……」
はっとした表情で土方も俺を見る。
「お知り合いですかな」
和尚はニコニコと笑うと土方に優しく声をかけた。
「ひとまず、お茶にするとしましょう」
非番のときはラフな格好の多い土方が、寺院に気を使ってかきっちりと羽織を着こんで足袋もつけている。
なんか新鮮で良い。
黙ってこうやってると端整で、つくづく美形だなァと思う。
口を開かなきゃ名家の子息だ。
なんかすごくそそる。あ、ヤバイかも……
「数日前から屯所に届いているものだ」
土方は俺に特に構わず和尚に向き直ると、袂から鮮やかな紙切れを出す。
広げられた和紙からは白檀の強い香りがした。
「なに、コレ」
覗き込んで思わず尋ねる。
無数の文字がてんでバラバラにその紙には書き付けてあった。
「恋、愛、情、想、慕……」
なんかの暗号か?
「これが、今朝届けられたものだ…」
(貴、深、想、恋煩、美、恋々、恋々、苦、情痴、白)
「文字が貴方へ逃げましたかな」
和尚はそう口にすると控えめに笑った。
土方はまっすぐ和尚を射抜く。
「誰かの言葉だと、言われた」
ウチの狗に、とぽそりと呟く土方に和尚は狗の心当たりがあるのか、
「ほう」
そう面白そうに笑う。
「この和紙はアンタが作らせたこの寺の特別品だろう。部下にあたらせた。
和尚、アンタなら心当たりがあるんじゃないか」
土方は先ほどと同じ質問を繰り返すとあとは行儀良く和尚の出方を待っている。
「ふむ………」
和尚は少し考える仕草をするとしばらく黙った。
俺が気を揉むくらい長く考え込んだ和尚は、厳かに口を開く。
「………寺は女戒が。さすれば生涯恋をせず終わるものもおりましょう」
和尚の突然の物言いに俺は面食らう。坊主は妻帯してるくらいだろうと思うが、宗派によっちゃ、
生涯を捧げるってのもあんのか。
「そういうものが集まれば、そしてひとたび恋を知ってしまえば………」
和尚は深く溜息を吐く。
「……土方殿、また何か連れていらっしゃったか」
あぁ、確かに得体のしれねぇ気配だ。
瞬時に身構えた銀時の目の前でそれは起こった。
本当に一瞬で。
和尚の手元の書物が風も無いのに突然舞い上がり、あるページが開かれる。
その中から
『眠』
という言葉がふわりと浮かび上がったかと思うとすぐに土方へ入る。
(や、本当に吸い込まれるみてぇに綺麗に身体んなかへ入ってったんだって!)
「あ………」
その途端土方はかくりと身体を倒すと畳に静かに倒れこんだ。
「おい!十四郎!」
思わず下の名前で呼んでしまった銀時に少し和尚が驚いたのに気付かないまま銀時は土方の身体を抱きかかえて胸の音を聴く。正常に鼓動しているのに安堵したあと、警戒の為に全身の筋肉を緊張させた。
それから暫くしても、結局何の動きも無い。
和尚が客間に蒲団を用意させ、銀時は土方をそっと横たえた。
それから銀時は和尚を見た。
和尚は唐突に言う。
「沈黙の誓いをたてた修行僧は筆談で意思を伝え合いました、その記録も残っています」
「一言もしゃべらねぇのか」
俺なら耐えられねェ。
「ええ、そうです。そしてそういう人間の書いた文字が多く消えています。
何か特別な思念が文字に篭もったのでしょうか……それとも、思念を引き受けやすい文字なのか……」
何を悠長な。
「土方はどうなるんだっ…」
思わず襟首を掴んでしまったが、和尚は意に介さない様子で俺の手をやんわりと外す。
「落ち着きなされ、土方殿は眠っておられるだけです」
そう言うと和尚は静かに眠る土方を見た。
「あなたはこの方とご一緒にこの世ならざるものをもう見聞きなさったのではありませんか」
「………」
沈黙をどう受け取ったのか、食えない老人は全て看破しているかのように囁く。
「『彼ら』はこの方を愛している。仏を愛さぬ門徒はおりませんから」
ぎり、と唇を知らず噛み締めている銀時に和尚は少し微笑む。
「我々の宗派ではございませんが、殉教者が神を辱めるときは死を選ぶときである、という例えもございます。
いずれにせよ…ひとが仏を愛するのは、仏もまた我らを愛し、救ってくださるからです」
「土方は」
「この方は美しく、曖昧だ」
和尚はそれだけ言うとひそやかに息をつく。
「あなたも、なかなかに恐ろしいお人だ。こちらともあちらとも、親しい。いや、あなたはどちらも憎んでいるのですかな…」
問いに答えない銀時に構わず和尚は土方の蒲団をそっと撫でた。
「よく眠っておられる………まるで」
和尚は何か呟く。
「………こちらで身柄をお預かりさせていただくか、真選組の方に……」
「ウチで面倒をみたい」
銀時は思わず口から出た言葉に自分でも驚いたが、それが偽り無い本心であると一瞬で理解した。
「……あなたと土方様は」
「屯所には、俺から頼むから」
頼まなけりゃ、土方の身一つ思いのままに出来ない歯がゆさには目を背けて。
「構いません。いま副長は休暇中ですから」
電話の向こうでジミーはそう言うと声を潜めた。
「……何か面倒なことになってますね」
いつもの情けない声とは違った、言い表しがたい声音。
「…今朝届いた文に関係があるんじゃないですか」
一瞬で刺し込む辺り、流石、監察山崎退といった所か。
「ああ、」
否定する気のない銀時は素直に認めてやった。
コイツはいわば殉教者。自身の神に仇為す前に自害する種類の。
だから、ムカツクとはいえ、嫌いではない。
「俺も様子を伺いに行きます。残念ながら俺これから任務なんですが、暫くしたら身体が空く予定なんで」
「旦那」
「ん」
「『彼ら』があの人を傷つけることはないでしょうが……土方さんをくれぐれも頼みますよ」
「わかってる」
そのときに念のため、屯所の武器を少し、拝借しておくことにした。
新八と神楽には暫くお妙ん所で過ごしてもらうことにした。
三人で遊びに行ってくれるとかで、
それが山崎が新八を経由して手配した旅行券のおかげってのを知れば、
まぁ流石に感謝、はしねェが、土方のことにかけてはアイツがマジなのは認めざるをえない。
で、ふたりきりの準備は整ったってのに。
万事屋に匿った土方がなかなか目覚めない。
病人の世話や怪我人の世話は慣れているから苦ではないが(しかも可愛い恋人、なわけだしね)、
一度だけ家を空けるときは少し不安だった。
何だかんだで話の判るいい女な、階下のババアに頼んではおいたが、そのときに大量の食料を買い込んでおき、外出はしないようにした。どうせ開店休業状態だ。
それから、不味いことが立て続けに起こった。
寺と同じことがウチでも起きるようになって。
雑誌やら何やらからいくつもいくつも文字が抜けた。
いつも読んでたジャンプの台詞が気の抜けたもんになっちまって、マジでか?と思えばさらに驚愕。
文字が宙に浮かぶようになっちまったんだ。
それは不思議と、お綺麗な字ばかりで。
夢、という文字が浮かんで、土方の中に入っていく。
それからくるくると土方の周りを文字が取り囲み、銀時を寄せ付けないかのように、そのまま浮かんでいる。
花、愛、夢、美、恋、想、花、花、魚、椿、楓、婚、桜。
何でもありか。
奇妙な光景に息を飲む銀時の前に
「こんにちは」
狐のような顔の男がにこりと笑って座っている。
「テメェ、どっから入った!!」
気配も何もしなかったぞ!!!
「紙の精が力を貸してますなァ」
男は銀時にはわからないことを言った。
「なんなんだ、テメェ…」
「あんさんの力になったりましょ」
マジでなんなんだ、コイツ。
「不公平ですからねェ、あんさんだけなぁんにも知らないんじゃ手の打ちようもありまへんやろ?」
狐男はそれからひっそりと笑った。
コン、と鳴かないのが不思議だった。
狐が来た日から。
夜の僅かな間だけ、土方は目覚めた。
「残念ながら、この程度が精一杯でおますなぁ」
狐男は枕元に膝をつくと、土方の身体を助け起こしてやった。
「あ……」
「おひさしゅう」
にっこり笑った男に土方は唇を少しふるわせる。
「俺は……」
「よくお休みでしたよ」
場違いに穏やかな声だった。
「そうか………」
対して土方はまだ夢を見ているような表情で言葉を紡ぐ。
「ゆめ、みてた」
「どんな夢ですか」
「きれいなゆめ、だったな………」
「それは、それは………」
狐の男がにっこりと笑うと土方も少し微笑んだ。
ほっておかれて拗ねそうになった銀時に絶妙のタイミングで土方は声をかけた。
「ぎんとき…」
「ん……平気か」
流石に病人?相手にえげつないことは言わない銀時は穏やかに問う。
「あぁ…、何とか」
視線の先で互いの存在を確かめようとした矢先。
ごうっと凄まじい風が吹いた。
狐の男はひゅんと消える。
風、と土方が認識する前に、気がつけば銀時は土方を庇うようにその胸に抱くと床に伏せた。
銀時の匂いが鼻腔を擽って一瞬どくんと胸が痛んだ土方に構わず、銀時は強い目をしている。
「土方」
「な、ァ!」
力づくで敷布に押し付けられて痛みに眉根を寄せた土方の前で鬼も殺しそうな顔をしている銀時に。
「ぎん…」
「黙れ」
つんと、よく知った匂いが土方を急激に現実へと引き戻す。
血の匂いが、した。
銀時の肩越しに、唸る風の刃が、確かに土方の目には見えた。
「離せ!」
びゅっと自分に覆いかぶさる銀時の背を通り抜けた刃が、何をしたのか。
「銀、離せ!!」
離せ、あれは、俺を呼んでる。
「黙ってろ!!!」
鋭い恫喝に一瞬言葉を失った土方は、身体中に銀時の匂いが染み付くかのような錯覚に眩暈を覚えながら震えた。
唸る刃の音はそれから暫く銀時の背を切り裂いた。
結局すべてが収まるまで銀時は一度も土方を拘束する力を緩めなかった。
「かまいたち、だ。ときどき、ふざける」
土方はぽつりとそう言った。
「俺は服を切られるくれェで、傷つけられたこたァねェ。お前があんな痛ェ目にあうこたなかったんだ…」
土方相手にはふざけてせいぜい衣服を切る程度のとやらの「カマイタチ」も俺には容赦なく肉を抉っていきやがったわけだ。
「俺は平気だっていっただろ……」
土方は泣き出しそうな顔で手当てをしている。
「大体お前…」
土方の指が色を失っている。
ああ、苛苛する。
その指を強引に掴んで引き倒す。
「抱くぞ」
口数少なくそれだけで強引に衣服を剥ぎ取られたことに異を唱える間もなく。
「ん…くっ……」
唇を合わせられて言葉を奪われる。
抵抗を、言葉を奪い取られて尚、なぜこの男を振りほどけないのか。
とっくの昔に心まで奪われていたからだろうか。
「んぅ………な、ぁ」
息をつく間すら与えられない口付けに土方の黒々とした眼に涙が盛り上がる。
「よ……」
「銀時だろ」
「ッぁう……」
仕置きのように唇を甘く噛まれてぞくりとした震えが走って結局言葉にならない。
「なぁ、俺怒ってるんだけど」
「ぁ……なに…?」
「お前、いい加減アッチ側のモンに構うのやめろ」
「…構ってなんか」
「黙れ」
「アァ!!」
話させたくせに力をこめて握られて思わず悲鳴が上がる。
「…痛ッ」
「当たり前だろ、痛くしてんだ」
「な」
銀時相手には低くなる沸点が、怒鳴らせようと土方の口を開かせたが、そのまま舌を差し込まれて強引な口付けを長引かせることになってしまう。
「ハァ、ぁ、銀…怪我してんだろ…こんな……」
こんなのよくねェ、そう言って土方は頬を赤らめた。
嫉妬だ。こんなもんはただの醜い嫉妬。なのにどうしようもない。
苛苛する。コイツは俺のもんなのに。
いや、俺のもんじゃなくても、誰かのもんになるのが。
いや。
ああ、混乱する。
サディスティックな性質が顔を覗かせ始めたことを銀時は自覚する。
不安に彩られた土方の表情は幼く、常との落差にぞくりとする。
「なら、ここ……舐めろよ」
悪いと想っているらしく従順な土方にうっそりと笑いながら銀時は傷を晒す。
「ん………」
痛々しさに泣きそうに顔を歪めた土方は一度伸び上がって銀時の唇に軽いくちづけを贈った。
赦しを請うような仕草だ。
それから素直に唇を寄せて土方はそっと、痛みを与えないようにだろう細心の注意を払いながら銀時の傷口を熱い舌で慰撫した。
時折、ふ、と抑えた息がかかってぞくぞくする。
「あ、……ふ………」
ぴちゃぴちゃと音がするまで舌で丁寧に傷を辿りながら、土方は時折また息を吐く。
「痛く、ねェか………?」
ハァ、と息をつくと土方は伺うように銀時の背にそっと手を置く。
「いや、いいよ……」
「ん………」
そうやって暫くは傷を舐めさせた。
ただ舐めるだけの行為でも舌が疲れてくるのだろう、段々と土方の表情が苦しげなものになる。
それでもやめない辺りが最高の可愛げ。
無自覚に嗜虐心を擽ると本人はずっと気付かないんだろう。
仕舞いには互いに互いの指先や肩口を舐め、唇を押し当てて愛撫しあった。
段々と頭が混濁していく。
何かに当てられたか。
「銀時………ぎん…」
「ん……いい?十四郎」
互いの名前を甘く呼び合いながら散々そうして愛し合った。
「な……、もう、今日は俺のことだけ考えてろよ」
「ん……」
「他の事なんか、何にも考えられねェだろ」
「あ………ぅ……」
本当に土方は他に何も考えられねェみてぇで、溜息みてぇな吐息を漏らすと俺の言葉にいちいち頷くと俺の胸に顔を埋める。
すん、と匂いをかぐようにしながらぐいぐいと顔を押し付けてくるのが可愛くて、
両手でしっかりと抱きしめて閉じ込めるように胸に埋めさせた。
万事屋にかかってきた電話で、「人、という文字ばかりが消えている」と和尚は言った。
警戒したほうがいいと言われても、何をどうすればいいのか。
その日の夜、目覚めて銀時と軽い会話をしていた土方は、
「お風呂用意するね」
そういわれて大人しく居間でぼんやりとしていた。
まだ頭が働かない。
それから目を見張った。
一瞬で、まわりが青くなったからだ。
青い、美しいが怖い光。
いつのまにか、隣に酷く時代がかった衣服の、しかし高貴な面立ちの男が居る。
その男はにこやかに笑いかけて土方の手をそっととる。
抗うより早く抱き寄せられて土方が何か言う前にぼうっと男が光る。
「……鬼火」
ああ、ときどき視るひかりだ。
首筋に優しく唇をよせ、高貴なオトコは土方を愛しむように抱きしめ続けた。
動けない。
ただ土方はそう認識した。
だとすれば抗っても仕方がない。
男は上機嫌で、懐から文を出して広げた。
広げられた紙からは文字がふわりと浮かび上がる。
「前、貴方、愛、」
前から貴方を愛しています、と頭の中の何かが囁いた。
「詠んではくださらぬか」
男は透き通る声で告げた。
銀時は何をしているのか。
無事だろうとは思うけれど。
近づけないのだろうか。
そういえば屯所でも同じようなことがあったっけ。
「読む?」
「ああ」
鳥を読めば鳥が飛び、蝶と言えば蝶が舞う。
そうしていると小さな生き物があふれ、土方のまわりを彩る。
「花」
とりどりの花が咲き乱れ、土方のまわりで強い芳香を放つ。
土方の意識が保たれていたのはそれまでだった。
かくり、首を倒した土方を支えようとした男は、
一瞬で現れてにっこりと笑った狐の男に阻まれて忌々しげに顔を歪めた。
ドタドタと凄まじい音を立てて階段を駆け上がって、
玄関が乱暴に開かれた。
「旦那、遅いですわ」
「…ッ、ハァ、…ウルセェ…」
風呂の用意をしていたら、気付けば万事屋からはるか遠くの寺にいたなどと誰が信じるだろうか。
が、起こってしまったものは認めざるを得ない。
座禅中の坊主達を混乱させてしまったが、まぁ和尚が言いくるめてくれるだろう。
「寺とこちらに何か繋がりがつけられてますな、呪が」
「…ッ、しる、か……」
銀時の常人ならざる殺気に、男は震えた。
狐の男は特に気にしていない様子だったが。
「テメェ…土方に触るな……」
力の無い身体を抱き寄せて睨みつけると、男はひゅっと消えた。
「腰抜けでおますなァ」
「ありゃ何だ」
「紙の精でっしゃろ。文字と組んでおいたをしとるうちに、自分も美味しい目みとなったってのがま、関の山」
「燃やしてやるか…」
「ご随意に」
「しっかし、なんだよ、これ……」
眠る土方のまわりにはけして枯れない美しい花が溢れたままだ。
「お綺麗ですねェ」
「薄気味悪ィ!」
叫んだ瞬間、腕の中の土方がぴくりと反応した。
「…十四郎?」
ふらふらと起き上がった土方はしかし銀時の声も誰の声も届いていないかのように茫洋としたまま、宙を見る。
「ん………」
悩ましげな溜息と共に土方がくたりと身体を投げ出す。
途端に花が恐ろしい速さで伸び、増え、咲き誇る。
空中からいくつも花が舞い落ち、床を埋め尽くしていく。
降り注ぐ花と気の狂いそうな芳香の中で土方はぼんやりと唇をふるわせた。
助けようと伸ばした手が届かない。
体が、ぴくりとも動かないのだ。
「いい、なんでもして」
土方は茫洋としたまま囁く。
「どんなことも」
ぼうっと光り始めた花から、誘われるように蝶が来る。
ひらひらと舞った蝶は、目の前で鬼の首に変わった。
「なんでもしてくれ…」
かちかちと歯の根が音を立てる。
恐ろしい筈の光景の中でも土方は笑ってさえいた。
「…おまえのすきなように」
言わされているのか、意思があるのかは銀時にはわからなかったが、
土方はうわ言のようにそう繰り返す。
花が腐敗する寸前の甘い果実のような毒々しい芳香を放ち続ける。
狐の男が険しい表情のまま、花と鬼火を睨んだ。
「あきまへん!言質とられてますわ!!!」
「なんだ、それ」
「言霊ですわ、あてら妖は言質に縛られて、言質で縛るんです」
「わかるように言え!」
「土方様があの文字の操り主の思うようになってまうっちゅうことですわ!」
「なんとかならねぇのかよ!!!」
そうこうしている間に、土方は夜着の帯をはらりと解き始めた。
ゆっくりと自らの手で夜着をおとしていくのを黙って見ているしかない。
夜目にもわかる白い肌が透き通って匂い立つような色香がある。
誘われたように蝶が、鬼の首が、青白い炎が、くるくると土方の周りを回りだす。
まるで戯れてでもいるかのように、土方はそれらに指を伸ばし、夢うつつの表情で笑う。
花が咲き、蝶が舞い、青く白く炎が燃える。
それから一際大きな光が差して、窓からぬぅんと音でも立てるように牛車が出てくる。
ぼうっと光る牛車の中から現れた男はそんな土方を見て目を細めた。
いざりよるとその身体を抱きしめる。
唇が動いて、おそらく「お美しい」と形作ったのだろうが声にはならなかった。
男は土方のさらされた白い肩に愛しげに口付けるとさらに首筋を愛撫した。
怒りか、嫌悪か嫉妬、いやどす黒い感情総てを煮詰めたような感覚が銀時の身体を解く。
「旦那!」
「どけ!!!」
あの日用意させた武器がやっと役に立った。
もう、火事なんか知るか!
小型の火炎放射器が火を吹く。
ごうっと凄まじい炎が牛車を包み込み、一瞬で男も花も消えうせた。
土方はぱたりと倒れる。
「紙の精は火に弱いおますからな」
狐の男は気をやったようにぼんやりと反応のない土方をそっと抱き寄せると軽々と抱き上げた。
流石魔性といった所か。
燃えカスに念のため水をかけている銀時を尻目に狐の男は目線だけで襖を開く。
もはや驚く気力も無い。
続き部屋の蒲団に横たえられて土方はまた静かに息をし始める。
「何で土方は眠ったままなんだよ」
「…文字が呪詛の代わりになっとるからでしょう、土方様のお体にさわるものじゃない筈ですが」
「…目覚めなかったら」
馬鹿げたこと、を口にした。
銀時は思って唇を歪めた。
「それで土方様が不幸だとなぜわかるんで」
狐のような男は冷たい声音でそう告げた。
「こんな醜い浮世に、こないにお綺麗な方、息を吸うのも苦しいでっしゃろ」
「それはテメェらが決めることじゃねェ」
「この方に綺麗な夢みせてやりたい思うことが、そないにおかしなことでっしゃろか」
狐の男の物言いに猛烈な既視感を覚えながら銀時は宙を睨む。
「惚れたお方に尽くしたい思うんは、あてらの宿命」
「夢は夢だろ。コイツはそんなモンに逃げ込むような人間じゃねェ」
いつも強く、凛としている。
そこがどんなに醜くとも、恐ろしくとも。
どれだけ血に染まろうとも、コイツは歩く。
修羅になれないくせに、狂えないくせに、強くあろうと足掻き、生きようともがく。
痛みを忘れられねェのに、人を殺して。
そのたび傷ついて。
なのに自分を見失わず、いつまでも汚れねェ。
俺はそれが凄ェ好きなんだ。
「勝手なお人やな」
ふっとアヤカシは笑んだ。
「せやけど、まぁ、しゃーないですわ」
にこりと笑う狐野郎。
「暫くすれば目を覚まされまっせ」
「は」
思わず間の抜けた声を出した銀時に淡々とアヤカシは続ける。
「もう術も切れどき。元より、こないに意思の強いお人にいつまでも縛りを与えてられまへんわ」
「なんだそれ」
「ていうか、あんま独占しとったさかい、他のんが制裁加えたんでしょ。独り占めはあきまへん。
呪詛の凝り固まった文字と加護のある紙を媒介にしてあの程度の力しか出ないなんて可笑しいさかい、まぁ横槍が入ったとみるのが定石。旦那の頑張りはまぁ、人の身にしてはようやっとりますけど、その程度ですなぁ」
あきまへん。また言い聞かせるように狐男は言う。
「綺麗なもんは皆でとろっとろに可愛がって、ちょっとずつ味あわなけりゃいけまへん」
「テメ!」
声を荒げた銀時に狐はふわりと身を翻す。
「あんさんもあんまりこのお方に無体を強いてると、今に色々どかんときますで」
カマイタチ、なんて可愛いもんですわ。
狐はにんまりと笑う。
木刀を握り締めた銀時の視界の隅で。
「ほな、また」
狐は夜の闇に消えた。
確かに土方はすぐ目覚めた。
狂喜した銀時に、あまり覚えていないのか、
「なんだ万事屋、いたのか」
などという非常に可愛くない反応をくれた。
ぴきぴきと青筋を立てた銀時の前でのんきにあくびをしている小さくて可愛い口を見つめて。
その小さいお口につっこんでやるよ、とか、
いまからたっぷり身体に教えてあげましょうねェ、などと息巻く銀時の前に。
「さ、帰りましょう。副長」
都合よく、いや極めて悪く、現れたザキは土方を立ち上がらせた。
「銀ちゃん!ただいまヨ」
「こんばんは、土方さん。あ、銀さん、飲みすぎてないですよね」
ガキ共を伴ってくればそれ以上何も出来ない。
そのうえ土方にじゃあまたな、などと普通に手を振られてしまい。
普通に見送る。
ああ、習慣て怖い!!
……なんだか(嫉妬のし過ぎで)疲れた。
俺以外の男の前であんな風に肢体を晒して。
というかさぁ。
「………俺、今回超可哀想じゃね?」
などと一人ごちた銀時の耳に、
こーん、と狐の鳴き声が届いた。