アイラブユーには程遠くとも
「…お気をつけて」
差し出された手を女は機嫌よく取って僅かな段差から降りる。
副長は柔和な笑みを見せた。
女が機嫌よく話しかけている。
唇を僅かに笑ませるだけでも、土方さんなら十分に効果がある。
大抵の女は骨抜きだ。
高官の奥方もその例に漏れず、土方さんが殊の外お気に入りのようだ。
「副長、」
副長の背後に影のように付き従う男達にも、奥方は目を細めた。
眼が合えば、皆が奥方に微笑むように躾けられているのだから、そりゃ悪い気はしないだろう。
今日の為に装いを統一し、揃えられた部下は皆、組でも選りすぐりの「優男」ばかりで。
品の良い高価なスーツを着てタイを締めればホストの集団にさえ見える。
勿論、副長の顔はそんな軽薄なものじゃない。
元々凄みのある美形だから、スーツ程度じゃ誤魔化せない。
が、今日は意識的に物騒な匂いを消している。
芸能人か何かなのか、と道行く人間が囁いている。
女は注目を浴びる快感を教授しているかのように、ますます機嫌よく土方さんに笑いかける。
休憩の為に入ったホテルのカフェで、当然のように個室へと案内される。
移動の最中も視線を浴び続け、奥方の満足は最高潮だろう。
綺麗な若い男達を従えて、傅かれ、まるでオヒメサマのような扱いを受ける。
女は幾つになってもそういう定番に弱い。
ボーイよりも早く土方さんが椅子を引き、奥方は微笑んで礼を言う。
静かに向かいに土方さんが座せば、奥方の笑みは一層深まる。
俺はその横で静かに立っている。
地味だ空気みたいだと言われる俺は少なくとも浮かずに場に溶け込む術は心得ている。
名目上は護衛だが、まさかこんな所を襲撃する馬鹿もいないだろう。
部下達が入り口付近まで静かに控えて、さながら映画のよう。
女はうっとりと浮かれて饒舌だ。
いや、これも副長の「演出」だな。
俺の役柄は執事かな?
いや、それはずうずうしいか。
親密な話をしている、と思ったら、奥方が少し低い声を出した。
「…あら、あの人がそんな話を?」
「ええ、非公式の、ですけど」
土方さんが困ったように笑って見せる。
とっておきの宝石を見せられたみたいな、奥方の顔。
あ、これはおちるな。
「……よく言って聞かせるわ。あの人、いい人なんだけど少し困ったところがあるのよ」
「とても素晴しい方です。我々も随分目をかけていただいて」
女の主人、を褒めるのは必要事項。
それはそのまま女の「格」に直結すると、少なくともこういう権威の側の女は信じているから。
自分の選んだ男が優秀であることは女のプライドの維持のための絶対条件だ。
それから奥方を送り届けるまで、彼女のご機嫌が下降する事は無かった。
夜、局長が酔った顔を上気させ、少し困ったように大声で笑っている。
屯所の共有スペースに雪崩込んできた局長に、隊士たちがおかえりなさい、と口々に返す。
ほのぼのとしたよくある光景。
「おかえり」
低く澄んだ声がして、土方さんが夜の庭を背に、ゆっくりと部屋に入ってくる。
一瞬緊張した場の空気をそのままに、土方さんの洗い立ての髪の匂いが風に舞う。
昼の正装の所為で、整えた髪を早く自由にしたかったんだろう。
局長のアルコールの匂いにかき消されたそれを、少し惜しいと思った。
「ただいま、トシ。今日は緊張しちゃったよ」
にっこり笑う局長の横を遠慮して空けた隊士は、当たり前みたいにそこに土方さんが座ると思っている。
局長は当たり前のように土方さんの手を掴んで、引いた。
重力に逆らわない生き物みたいに、すとんと土方さんは座った。
ぺたりと投げ出された無防備な足先は、むき出しだから当然のようにすごく白い。
「上手くいくと良かったんだがなァー」
接待相手は今度の仕事上、どうしても協力を取り付けたい高官。
局長級でなければ話もしない辺りは、噂どおりの権威の奴隷だ。
いい意味で男に好かれる局長は比較的あっさりと非公式の密約の席につくことが出来たが、
結果は芳しくなかったのかもしれない。
「近藤さんを気に入ってたみてェじゃねェか、あのオヤジ」
土方さんの着崩した着流しの裾を目で追っていた部下を気取られないように小突いていると、
最近入った若い部下が水を持ってくる。
副長に目で合図をするあたり、よくわかっている。
「おかえりなさい、局長。よろしければ飲んでください」
おお、と頷きながら危うい手つきに土方さんが溜息をついて局長の背を片手で軽く支えた。
当然のように局長はその手を受け、それから礼を言いながら反対の手を握った。
新参のこの部下は、このふたりをどう思うだろうかと俺は考える。
この男が土方さんの下で働けることを誇らしく思っていることは俺にも分かる。
同じ匂いのする生き物には誰だって敏感になるからだ。
若いが度胸のあるこの男を俺も土方さんも気に入っている。
ああ、重宝していると言ってもいい。
強面ばかりの屯所には、こういう人間が必要だ。
「いや、ビジネスとそれは別モンだって言われちまったよ。あの人いい人だけど厳しいな!」
はははと豪快に笑う局長に土方さんは、
「保険ならかけてある」
そう言ってゆっくりと局長の手を解いた。
「ん?」
局長が解かれた手を不思議そうに見ているので、土方さんが困ったように笑うと、
局長の肩をとんとんと叩く。
「おつかれさん」
「おお、ありがとな」
にかっと笑った局長に、土方さんが控えめに笑った。
「つまり、真選組と、うちが合同で動くということだ」
会議室に響く声に、皆がびくりとするが土方さんは不敵な笑みを浮かべて男を見つめている。
俺は、こういうときは特に、土方さんの腹心であることが嬉しくてたまらない。
「うちとしても尽力する。協力は惜しまない。土方、とりあえず実戦部隊との連絡調整の窓口を明確にしておきたいから、この後三者間で少し話をしよう。
ああ、詳しい話は資料を用意してからの方がいいな。次の打ち合わせの日取りを部下に連絡させるよ」
てきぱきと動き出した人間達の輪を縫って、俺は周りの反応を注意深く観察していく。
不穏分子には手を打たなければならない。
土方さんは男から視線を逸らさないから、こういうのは俺の役目。
会議の終了後、見慣れた男に呼び止められた。
皆が思っていたのであろうことをてらい無く口にしてくる程度には親しい男。
「どうして、あんなにあっさり通ったんだい」
「女に勝てる男がこの世にいないからじゃありませんか」
「なるほど。将を射んとせば、とやらか」
男は何が可笑しいのか、含み笑いをしてくる。
「……そういえば、あの方の奥方が君の上司や部下達を連れている所を見たよ」
「そうですか」
「あんなに人目を引いてちゃね」
「奥方に江戸をご案内していただけですよ」
「あの方は生粋の江戸生まれだろう?観光でもあるまいし」
「大人の観光ってもんがあるでしょう」
「鑑賞、の間違いじゃないのかい。綺麗どころばかりだった気がするが。ホストじゃあるまいに。あれも組の仕事のうちなのかい」
俺は笑う。
取り合わないでいることもできたが、そのときの気分はなんていうか。
「だってうちの副長、物凄く良い男でしょ」
呆気にとられる男に笑い返してしまうくらいには、愉快だったんだ。
「仕方ないですよ、ねェ」
ああ、誇らしい!
人の波が不自然に動く先は、黒いスーツとお金持ちそうな女の人。
女の人の視線の先、ギャラリーの視線が一点に縫いとめられているのは、一人の男の人。
見慣れたと思い込んでいたけれど、やっぱり慣れるには美形過ぎる、因縁浅からぬ人。
ああ、こうやってみるとやっぱりすごくカッコイイ人だよな。
どれくらいの間、僕はその場に立っていたんだろうか。
お屋敷に女の人が吸い込まれていった後になって、僕はかけられた低い声で我に返った。
ずいっと黒いスーツが目に入って、顔を上げればさらに整いすぎた顔。
「良ければ送るが」
「え、あの、」
「乗ってけよ」
すい、と首だけで促されて僕は思わず
「っハイ!」
寺子屋のように返事をしてしまう。
ぎょっとしたのは周りと僕自身だけで、
土方さんも、土方さんに付き従っている部下の人たちも顔色を変えない。
僕と土方さんを見比べる周りの視線が刺すように痛い。
お客様の扱いで、僕は親切な組の人に車のドアを開けてもらった。
なんていうか、すごく優しげな顔の人ばっかりなのは気のせいだろうか。
もっと物騒な人ばっかりだと思ってたのに。
「凄いですね」
頭に疑問符を浮かべて、土方さんが視線だけで綺麗に僕を流し見た。
どきっとして、口ごもる。
「あの、格好いいっていうか……」
ぎゅっと少し荒い仕草でスーツの襟元、タイを緩めた手が自然で僕は見惚れる。
「さっきの、エスコート…っていうんですか、女の人の扱い方が自然で、なんていうか、すごく格好よくて」
「こんなもん、ただの慣れだ」
土方さんはそう言うと静かに喉で笑う。
「場数を踏めば上手くもなる。それだけのこった」
運転席に短く指示を出した後、窓の外に少し目をやった。
流れるような動きで、滅多に乗らないタクシーよりも手馴れた運転。
部下の人は土方さんの声に頷くと、僕がシートベルトをしたのを確認して発進していて、
荒っぽいところはまったくない。
「そうでしょうか…あの女の人もすごく喜んでて、楽しそうで、ああいう感じって僕には全然出来そうに無いですし、その……」
「経験不足なら補えばいい。お前はまだガキだから慣れてねェだけで、経験すりゃぁ簡単に出来るようになる。他所の女への上手い扱いなんて慣れだけの産物だ」
その場数を踏むチャンスが僕にあるのだろうか。
という情けない考えはこの際頭の片隅に追いやる。
僕の逡巡を感じ取ったかのように、土方さんが目を少し細める。
そうしていると、雰囲気が少し優しい感じになる。
「お前は見込みがあるしな。今に女がほっとかなくなるさ」
「でも、あんなにスマートに女性をエスコートなんか、一生できそうにないです……」
長谷川さんなんか土方さんより多分ひと回り以上年上だけど、ただのマダオだ。
一生マダオのままの男のほうが多いと思う。
「良いじゃねェか。出来なくたって」
ふっと唇を今度こそ和らげた土方さんは女の人が見たら卒倒するんじゃないかってくらい、
暴力的にセクシーだ。
「本当に頼りになる良い男ってのはよ、こんな馬鹿げたお遊びが上手い奴でも、優しいだけの奴でも無ェ…困ったときに手を差し伸べてくれる奴、不器用でも真っ直ぐに想ってくれる奴、間違えたら叱り飛ばしてくれる奴、そういう奴じゃねェかな……」
「…姉上も、同じようなこと、言ってました」
ただし男は持ってるお金も大事だと豪語していたけれど。
だろ、と土方さんは嬉しそうに肯定した。
「仮に経験不足で上手く女の気に入ることが出来なくってもよ、怒らせちまっても、赦してもらえるまでわびりゃあいい。本気で惚れた同士なら、んなこた気にならねェはずだろ」
僕がこくりと頷くと、土方さんが僕を見て少し優しい顔をした。
「だから、」
とん、と窓の縁を長い指先がノックするように軽く叩く。
「本物の男の条件ってのは、いざってときにテメェの全部で、大事なモンを護れるかってことだろ」
そう言い切った後。
「いるだろ、そういう男が」
そのとき、土方さんは急に、凄く凄く優しい声を出した。
その表情がぎゅうっと胸が苦しくなるくらい綺麗で僕は思わず声を飲み込む。
「俺ァ、そこんところがさっぱりだ」
自嘲気味に呟くと、土方さんが綺麗な睫毛を伏せた。
「どうあっても、そいつみてェにはなれそうにねェ……」
土方さんは一瞬で、さっきまでの貴重な輝きを仕舞って、
またいつもの少し物騒でやっぱり美形な顔に戻った。
「あ、」
なんだろう。
なんだろうなんだろう。
僕が照れてるのが可笑しいのか。
でも、いやいやいや、これは。
いざとなったらキラめく。
銀さんは、やっぱり凄いと思う。
こんな綺麗で凄い人が、銀さんのことになると、酷く無防備に笑う。
万事屋に置き忘れられていた、多分世界中でこの人しか使わないんじゃないかってデザインのライター
に。
ときどきひっそりと置かれているお土産の、僕や神楽ちゃんが喜ぶ可愛いお菓子たち。
テレビのニュースで、見慣れた黒い服を見る銀さんの横顔。
そういういくつかの積み重ねが、僕の心にある予想を立てた。
その予想を全部確信に変えてしまうくらい、綺麗な顔だった。
僕の周りには凄い男の人ばっかりで、いつになったら僕は本物の男になれるんだろうって
悩むこともあるけれど。
きっと、僕の周りが特別なんだ。
でもそれが凄く嬉しくて誇らしい。
なんだか笑い出したくなった僕に気付いたのか、
土方さんが不思議そうに僕を見つめてくる。
僕は、堪え切れない幸福に似た何かに向かって、思い切り微笑んだ。
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