親しくなるのは簡単だった。

土方先生の仕事は園児を送り出し、片づけをして翌日の準備をすれば終わりだ。
一応夕方まで預かってくれる私立幼稚園とはいえ、保育園に比べれば帰宅も早い。
図らずとも、仕事の関係で銀を迎えに行くのは大抵が他の子どもが帰った後。
それから食事に誘ったり、土方先生の好きな映画を
(銀と同じアニメ映画を泣きながら見ているのには驚いた)観に行ったり、
休日の約束を取り付けるのにもさほどの苦労は無かった。
土方先生の情報を集める為に親しくなった他の女保育士の話によれば、
園でも「イケメン先生」として母親連中に大人気の土方先生は女親にはガードが固い。
ひとりを特別扱い(したつもりがなくとも)するような素振りを見せればヒステリーのような状態になるらしい。
実際過去にしつこく言い寄られて困り果てたらしく、他の女保育士がそれとなくフォローを入れているそうだ。
妙という名の物凄く怖い女保育士が土方先生の先輩として、色々面倒を見ているらしい。
(ついでに同僚や保護者に睨みを利かせている)
だが男親、それもシングルファザーの自分となれば先生の警戒はほぼゼロだ。
年上の男、に弱いのか、素直に尊敬の眼差しで見られて面映い。
この素直で可愛い子は、エセ紳士が狼になる日を想像できるのだろうか。

寝てしまった銀を抱っこしたまま、お茶でもどうぞ、と言えば銀を起こしたくないのか
夜でも案外素直に家に来てくれた。
一度一緒に食事をしてしまえば、何より自分の面倒を見ている子の親となれば信頼してしまうのだろう。
日本ならいいが、海外ではもう少し危機感を持ってほしいと少し思うが。
この手の子なんてロクでもない男に頭から食べられてしまうだろう。
ココが日本で本当に良かった。
じゃあお前はロクな男なのか、と言われそうだが。

ソファの上で銀は先生に抱っこされたまま眠っている。
ぽっかり口を開けた幸せそうな、間の抜けた顔で。
俺の前ではこんな顔はしない。
だが、だからなんだということでは、勿論ない。つもりだ。

「泊まっていってね、先生」
くだけた口調になったのは少し前。
先生は一応敬語のままだが、やはり纏う空気は穏やかで甘くなった。
「いいんですか」
「明日休みだし、銀も先生がいてくれたら喜ぶよ」
「銀、可愛いすね」
にこっと笑うと抱っこしたままの銀を撫でた。

「先生、先生は好きな子いないの?」
「あー俺、今フリーなんすよ」
土方先生はあっさりとそう言うとふっと笑った。



「あんま長続きしなくて」

あ、この子、無意識に女泣かせてそう。




ソファに座っている銀の頬に何となく手を伸ばして。
「おい、銀…」
「いてッ」
「あ、悪ィ………」
ひゅ、と軽い音を立てて、走った爪は皮膚を傷つけた。
紅い線が引かれた顔に一瞬、俺の表情は凍った。
敏感な銀は目を見開き、それから確かめるように頬に触れた。
一瞬の、沈黙が広い部屋に広がった。
「消毒するぞ」
「べつに、コレくらいへいきだ」
ぶっきらぼうにそう言うと銀はテレビ画面に向き直った。
完全に俺を拒絶している背中だ。
ときどき、どうしたって俺の話をきかないことがある。
「雑菌入ったら困るだろ」
「こんなの、まえもあった。そのままにしてた」
不自然に固い声で銀は言うと、ますます食い入るように画面を見つめる。
「おい、ぎ」
「もっと、いたいときオヤジいなかっただろ……かあさんだって、このくらいなんにもしなかった」
ぽつりと銀は言うと、幼児らしからぬ仕草で手を振った。
「いいから、も、おれのことみてんなよ」
言われるまでもなく、
しばらく俺は銀の顔をまともに見ることが出来なかった。


デリバリーでもと思ったが、いらない、と言われてしまう。
気まずい沈黙に耐えかねた俺が何か言おうかと考えていると携帯が鳴った。

俺は祈るような気持ちで、返事のメールを打った。
土方先生が来てくれたのは行幸だった。

土方先生が来る、と言えば銀の機嫌はすぐに直る。





「こんにちは」
土方先生は、清潔な香りのする白いシャツで家に来た。
洗面所で手を洗ってから、出迎えた銀を抱き上げると笑いかける。

「銀、ほっぺ、薬塗って良いか?」
「ん、やさしくしてよ、せんせい」
「わかった。そーっとやるな」
「ん」

銀がちょろちょろ纏わりついているのを撫でながら先生が俺をそっと見る。
「あ、すいません…ちっと俺が引っ掛けちまって。薬なら多分救急箱が……」
「この辺じゃないですか?」
「あ、そうです、そうです」

銀は手当てをされて大人しくソファに座った後、結局疲れるまで先生と遊んだ。
まどろむ銀をそっとソファに横たえてブランケットをかけると、土方先生が俺の隣に座る。

「爪が、少し長いですね」
土方先生は俺の指先をそっと手に取った。
詰問する口調ではなく、穏やかな声だったから、俺も素直に声が出た。
「そう…かな。これでも短いほうだけど」
「子どもの肌はぷくぷくしてて柔らかいから、大人の肌より沈み込みやすいんですよ。相当短くしとかないと、ほら」
土方先生の長くて綺麗な指先は、確かにやや短すぎるのではないかと思われるほどに
整えられていた。

「深爪しそうでなかなか」
「コツを覚えれば大丈夫…良かったら切りましょうか?」
持ち歩いているという救急セットには、子どものための絆創膏に消毒、爪切りとやすりまであった。
綺麗な顔のお兄ちゃんにしか見えないのに、
若くとも保育のプロフェッショナルなのだな、と俺はなんだか感心してしまった。
「俺も、初めのうちはつい切りすぎちまって、痛かったんすよ」

隣に座った土方先生からはふわりと柔らかい匂いがして、
寄せられた顔の整った美しさに陶然となる。
先生は優しげな手つきで俺の手を膝の上に置いて、ゆっくり爪を切り出す。
女にもっと凄いことをいくらでもされたってのに、
俺は何故か固まった。
先生は構わず器用にやすりをかけて、おしまいにクリームまで塗ってくれた。
手のひらで温めたクリームを塗り込みながら、軽くマッサージをされるのはますます緊張した。
おいおい、俺はいくつだよ。ティーンのガキじゃねぇんだから。
うわ、土方先生の手ってつるつるすべすべ、とか馬鹿か俺は。
「ほ、保湿クリーム?」
「そう。荒れてると子どもに触ったとき、痛がられちまう」
先生の顔でそう言いながら、土方先生は自分もついでに塗って、ふと銀を見た。
ほやんとした顔で起き上がった銀は寝ぼけた顔で
「せんせい?」
と呼んでいる。
先生はすぐ傍に近寄って、それから銀の髪を撫でた。
「子どもに触るときはさ、やっぱ柔らかいままでいてェなって」
俺を見上げて照れたように笑った先生は俺が子どもなら抱きつきたくなるくらい、
優しげで素敵だった。
勿論俺は大人なので、抱きついただけじゃすまないが。
「もう眠くない?銀」
「うん……せんせい、おれも」
「どうした?」
「……て、おれもやって」
「うん、おいで、銀」
えへへ、と笑いながら銀は先生の膝に乗る。
銀を膝の上に抱っこした先生は銀の手元を覗き込む。
「ん〜じゃあやすりにしような」
「やすり?」
「そう、つるつるになるぜ」
「せんせいといっしょ?」
「そう」
「じゃ、やって、それ!」
へへ、と幸せそうに笑いながら銀は先生の指が自分の爪を優しく整えていくのに見入っている。
「銀の手、ぷくぷくしてるな、気持ち良い」
「せんせいのてもきもちいいよ」
「おう、ありがとな」

「せんせい、ちゅーしよ」
「お、なんだ、どこで覚えてきたんだ〜銀」
「もうおれおとなだからしってるぜ」
「そっか。大人か」
「そ、だからちゅー」
「はは、さっちゃんが泣いちゃうかも」
「しらねー。おれあいつしゅみじゃねーもん」
「んーじゃ、ほっぺな」
ちゅ、と怪我したのとは反対側に軽く触れただけのキスをすると、
土方先生は見惚れるような甘い顔で笑った。



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2011.05.15.