クライベイビー,リトルサン




降り立った空港で感じる日本の風は、どこか冷たく乾いていた。
仕事の本拠地だったニューヨークのオフィスに別れを告げ、
わざわざこの蟻の巣のような日本に戻ってくることになるとは。
何かの報いだろうか。
目ざとい観光客が俺を指差す。
俺はそれに微笑むと、握手に応じた。
それからサングラスをかけ、表情と顔を消した。
まぁ、この銀髪は目立ちすぎるだろうが、
声をかけるな、プライベートだというサインを見落とすほど馬鹿じゃないと思いたい。

自分がシングルファザーなるものになるとは。
まったくもって人生はわからない。
「復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮である」ということか。

銀は斜に構えたガキだった。
可愛げのない、表情の無いガキだ。
坂田、それが今日からお前の名字になる。
そうつげると銀はこくりと頷いた。

別れた妻との間、揉めたのは唯一、親権の問題だった。
そのせいで話し合いは一年にも及んだ。
彼女と別れることには異論は無かった。
彼女の俺への愛がもう、完全に枯渇していたからだ。
俺がアメリカで仕事にかまけている間、彼女は日本で別の男とずっと付き合っていた。
おそらく、そっちの方が本物の夫婦らしかったのだろうと思う。
彼女は妊娠していた。
そして新しい夫との間に娘が生まれたそうだ。
敏腕弁護士がそんなことにも気付かなかったのか、
耳ざとい連中には随分とコケにされた。
だが長く別居状態で、彼女の様子を知る手立ては月に2度、週末を過ごすというものだけだった。
しかもそれも度々流れた。
日本と違い、訴訟社会であるアメリカでの仕事は多忙を極めた。
テレビへの露出もそれに拍車をかけた。
弁護士が番組やテレビコマーシャルに出演することなど珍しくない。
何故だか知らないが、局の女性チーフは俺を気に入って、ぶち抜きの枠を取ってくれた。
俺の顔と名前は売れた。
金も随分稼いだ。
俺には、抜きがたい生まれへの引け目と、金への執着があった。
金を稼いで、家族に良い暮らしをさせたいというただそれだけのためにがむしゃらにやってきたつもりだ。
養母への恩も有る。
孤児だった俺を養い、大学にまでやってくれた強く凛々しい女。
喰うものにも困るようなガキの頃の哀しさを、家族には絶対にさせたくないと誓った。

何がいけなかったのだろうか。
きっと全部だ。
俺はどうしようもない男で、こんな男と暮らさなければいけない銀はきっと世界一不幸なガキだ。

乳幼児なら親権はほぼ間違いなく母親にいく。
いくら俺でもこれは覆せなかっただろう。
15歳以上なら、本人の意思が尊重される。
銀はまだ4歳だ。
離婚調停の常識だが、幼い子どもが実際に出廷するのは本人のために避けられる。
代わりに家裁の「調査」がある。
家庭裁判所の調査官がヒアリングした結果、
「母さんとは暮らせない」
そう子どもは言ったという。
居場所をなくしていくことを、僅か4歳の子どもが敏感に感じ取っていたのだろう。
調査官は哀れに思うだろうし、俺だって思う。
俺が担当する案件なら、義父の虐待への恐れをつくだろう。
だが自分の子どもとなれば話は別だ。
そんな理由で俺みたいな男の子どもになるリスクについては考えないのだろうか。
子どもだからか。
我ながら残虐な思考だ。
銀は俺に少しも懐いていない。無理もない。
殆ど他人同然に暮らしてきたのだ。






なのに、最近。
銀は酷く元気だ。
「ねぇ、何でアイツあんなに機嫌良いの?」
人の親になったのだから、仕事はある程度セーブしているが、家事などしたことが無い。
一日おきにハウスキーパーとして「たま」なる妙な名前の女に来てもらっているが、
その女は
「幼稚園に行くのが楽しいのだと思います」
と義務的な口調で言った。
派遣してもらったのは詮索好きのウザイ女ばかりだったので数日で交換してもらっていたが、
銀は懐かないし、俺には色目を使うしで最悪だった。
養母の紹介でうちに来ることになったたまは俺には興味が無く、
養母の世話になった恩返しがしたいのだと言った。
あの人は昔から顔が広く、色んなものを拾ってくる。
おれもその拾い物のひとつだ。
「幼稚園?」
「はい。正確には、担当の保育士の方がお好きなようです」
すらすらとたまはそう言う。
「ふうん、若い綺麗な姉ちゃんなんだろね」
ガキとはいえ、男ってことか。
たまは俺をじっと見た。
「いえ、男の方です。土方先生とおっしゃいます」
「あっそう。ま、色気づくには早いか」
「怒られますよ、銀時様」
珍しくたまは強めの口調でそう言った。
この女は雇い主にも遠慮が無く、
銀にも厳しい。だが銀は思ったよりこの女が好きなようだ。
子どもの趣味はよくわからない。
「一度、ご自分でお迎えに行くとよろしいと思います」
たまは断定するようにそう言うと掃除を再開した。

帰って来た銀をつかまえて、尋ねてみた。
「土方先生って、お前の先生か」
「そうだ。おれのせんせい」
得意げに俺の先生、と言うと銀はにっと笑う。
「おこるとこわいけど、ちゃんとあやまったらぎゅってだっこしてくれるんだ。
いちばんびじんで、いちばんやさしいし、すごくいいにおいがするんだぜ」
「……美人て」
拙い語彙でも賞賛することを怠らない辺り、こいつは結構な女たらしになるかもしれない。
…ロクでもないところばっかり似たか。




2日後、俺はスケジュールが空いたので銀の迎えに行った。
メルセデスを横付けすると女子大生みたいに若い母親や、俺の母親かって世代の女達が
きゃあきゃあ騒ぎ出したが、ニューヨークよりはましかと思って無視する。
つかつかと歩み寄るとちっこい生き物がわらわらいる。
幼稚園っていうか動物園だ。
保育士の苦労が偲ばれた。

こんなところばっかり俺の遺伝子を受け継いでしまったのか、
かわいそうなくらい目立つ銀色の頭が見えて、俺は嘆息した。
が、銀は信じられないくらい機嫌の良い声で叫んでいる。

「ひじかたせんせい、あしたこそおれとあそんでよ!!」
「ああ、約束な」
ぐりぐりと髪を撫でられて銀は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
銀が呼ばなくても。
俺は、その人が「ひじかたせんせい」であることを、すぐに悟っただろう。

顔を上げ、銀の視線に気付いて振り返ったその人は、俺を見て、懐かしいものをみるように目を細めた。

「お父さんが迎えにきたのか、良かったな、銀」
そう言うと銀の頭をもう一度撫でた。
それから、その人は銀と手を繋いで俺の傍まで来た。
銀は俺を見上げて
「今日はたまじゃないのかよ」
意外そうに言ったが、迷惑がっているわけではないようだ。
その人は綺麗な黒髪と同じくらい澄んだ黒い目で俺を見て。
「おかえりなさい、お疲れ様です。銀君のお父さん」
屈託無く笑ってそう言った。

俺はうろたえて言葉が出なかった。
その人は少し困ったように笑って、
「ああ、すみません。お仕事帰りかと思ったんで」
おかえりなさい、といったことに俺が困惑したと思ったのだろう、
そう付け足してまた控えめに笑った。

「い、え……」
おかえりなさい。
俺を銀の…父親だと言った。
それから、子どもにするみたいな笑顔。
完全な不意打ちだった。
動揺して、言葉が見つからない俺は多分、思春期のガキみたいに混乱していた。
こんな、社交辞令みたいな笑顔にやられて、いや、違う。
そうじゃない。いや、でも…
そんなバカなことばかり回った。
俺は多分、傷ついていたんだと思う。
自分でも気づかないくらい。
彼女を愛したのは確かだった。
愛した女に捨てられたのは2度目だ。
一度はハハオヤ。二度目は彼女。
十分すぎる仕打ちじゃないか神様とやら。
彼女にも、銀にも、俺は相応しくない男だ。
俺は自分の傷にも気づかないほど、参っていたんだ。
それを、一度で気づかせてしまった。

目の前のまだ歳若い男に、俺の心がゆっくりと囚われた瞬間だった。



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