「発作」は唐突だ。
循環する水の音に耳をすませた十四郎が、そっと水槽に指を伸ばした。
それから、綺麗な顔が曇った。
部屋にアクアリウムなんか入れるからだ。
馬鹿な金時。
美しい魚は店でも女を喜ばせる、とはね。
十四郎をテメェの店の女と同列に扱うならその首落としてやる。
この世で綺麗なのは十四郎だけだ。
水に映った表情が綺麗だって?
んなもんバスルームで眺めればいい。
頭のいい十四郎をテメェのご大層な趣味とセンチで刺激するな。
銀時が唇を噛み締めて俺を睨んだ。
アクアリウムを眺めていた十四郎の顔が、不安げに翳ったのは俺にもすぐに分かった。
魚にデジャヴュ。
違和感に耐えられるような不実な人間ではないのが愛しく、ときに痛々しい。
俺はすぐ、腕を広げて包み込んだ。
何もかもから隠すようにしっかりと。
抱きしめた身体が身じろぎする。
本気で嫌がっているわけではないのだろうが、
いやいやする子どもみたいに、十四郎は時折振舞う。
わがままが可愛いのなんて生まれて初めてだ。
拒否されたって興奮する。
救いがたくタチの悪い男に引っ掛かったオヒメサマ。
泣かないのはプライドが高いからだ。
「キッチン、バスルーム、リビング、ダイニング、寝室に、ここ、あとは共同のスペース……
そんなもんか、狭い世界だな…」
くるりと見渡した後、また少し動く。
拘束が緩まないのに諦めたのか、広いはずなのにな、そうぽつりと付け足される。
「…部屋の拡張しようか」
銀時が優しく告げる。
それもいいね、と俺は言って微笑む。
賢い腕の中の恋人が騙せるなんて勿論思っていない。
「水槽の魚にも言うのか?水槽のサイズを大きくしてやるって」
「魚を愛してるからね」
「そういう問題じゃねェって言うと思うぜ」
十四郎が少し硬い声で告げると近づいてきた銀時はわらってその頭を撫でた。
愛しい、と雄弁に物語る指先に抗ったことは一度も無いと知っているんだろう。
するりと俺の腕を解いて十四郎を逃がした銀時に俺は皮肉に笑ってみせる。
銀時がアクアリウムを背後に隠して、言う。
「眠らないと」
笑うことに失敗しているのは俺よりも銀時の方が嘘を吐かないからだろうか。
言葉を継いで肩に手を回す。
「さ、もう寝ようか、おいで」
俺は出来る限り優雅に十四郎の身体を支えて歩く。
不安に思うことなんか何もないんだよ。
シャツの襟を直しながら金時が戻ってくる。
「眠ったのか」
ソファから視線だけ上げて問えば、片手で器用にボタンを留めながら呟かれる。
「あぁ…少し時間がかかったけどね」
「宥めるのは何も交代じゃなくたっていいじゃねェか。二人の方がいい」
「駄目だ。ルールだろ」
一度決めたことを覆せばずるずると。
果ての殺し合いは御免だ。
そう、いつだったか言い合ったな。
水を替えなきゃ魚は死ぬ。
でもそもそも、海に帰れない時点で魚は死んだも同然なのかもしれない。
アクアリウムはエゴの塊だ。
「俺はお前を殺してあの子を泣かせたくない」
俺は何を飛躍して、などとは言わなかった。
口元だけ上げて、嘘つきの笑いをしてひらひらと手を振っただけだった。
十四郎に飲ませたグラスを手早く片付けてやりながら金時が言う。
「何か飲むか」
「うっわ珍し、作ってくれるわけ」
片づけを終えて戻ってきた金時が無表情にカウンターを親指で指す。
「クーラーに入ってるから好きなの飲め」
きっぱりと言う金時に特に反論もなく、
「セルフサービスね。ま、毒盛られちゃ敵わないわな」
身軽に立ち上がった。
カウンターへ向かう背に声がかかる。
「あのさ、医者が言ってた箱の話だけど、おまえどう思う」
金時はときどきどうしようもなく、自虐的だ。
「……パンドラの箱?あんなん…開けたらオシマイだよな」
平坦な声で受け止める。
「俺なら鍵をかけておくぜ。そもそもんな面倒な箱、パンドラに渡したりなんかしねェさ」
オンナを試すのはテメェに自信の無い馬鹿のすること。
言葉遊びにしては皮肉な。
足を止めた俺には、金時の表情がわからない。
同じように金時にも自分の表情は見えないのだと思った。
「鍵をかけられない箱かもよ?」
「作れよ、そんくらい。カミサマなんだろ」
「神だって好きなオンナの前じゃ、無力なんだろ」
「じゃ、パンドラそのものに鍵をかけろよ」
苛立った声が出た。
「名案だな。だが無様だ。心底嫌われちまう」
「よく言う。なら黙って箱が開くのを待ってろ」
言い捨てると、少し息を吐く。
馬鹿げた会話だ。
不自然な空気に支配された部屋で。
「……開けても最後に希望が残るんだろ、なら、いいじゃねェか」
客の女の子に電話で愛を囁くときと同じ穏やかな声音で、金時は言う。
それから、おやすみ、と言い残して寝室に消えた。
部屋が完全に沈黙する。
箱の一部はいま、閉じている。
だが、確かに存在している。
「…何かの拍子に思い出すことだってある…か」
ぼんやりとアルコールを呷りながら窓の外を見た。
金時が穏やかな声を出すのは嘘を吐くときだ。
長い付き合いだから知っている。
お前はその穏やかな声で、何を言って、何をしたんだ。
お前の穏やかな声がどれだけおぞましいか、俺は知りすぎて吐きそうだ。
からんと溶けた氷が音を立てた。
既に何もかもがばら撒かれた後の世界では、箱の中に最後に残った希望さえ、
逃げていってしまうというのに。
それでも箱は開く。
俺にもアイツにも、閉じ続ける権利が無い。
軽く目を閉じると、酔い以外の何かがまわってくるのを感じる。
酷い音がして俺は目を開けた。
とん、と壁に寄りかかって、リビングに砕け散ったガラス片に視線を落とす。
「寝たんじゃなかったのかよ」
金時の馬鹿野郎。
水浸しの床と、砕け散ったガラスの中央で、俺を振り返った金時は笑って、
酷く穏やかな声で言う。
「悪い、割れちまった」
何も殺したことがない、ガキみてェに穏やかな声だった。
ガラスを砕いてしまえ。
何も思い出させるな。
何も知らせるな。
水に溺れる魚は救い上げれば人間の体温に火傷する。
触るな。
逃がしてくれと、見あげる魚に俺は笑ってみせる。
この檻の中がお前のすべて。
誰かが水を奪えばお前は死ぬ。
俺が触ればお前は傷つく。
助けるつもりで傷つけてしまうのなら、何をすれば良いんだろう。
教えてくれないか。
俺はどうすればおまえを。
金時がガラス片を集めながら笑う。
「魚は可愛いけど、羽がなくて良かったな。飛んで逃げない」
大の男がこんな夜中に何をしているんだろうな。
お前に惚れてる女に見せたら卒倒するんじゃねェか。
「馬鹿言ってねェで手を動かせ。ガラスのひと欠片だって残すなよ。十四郎が怪我したら…」
「明日キーパー呼んで念入りに片付けさせるよ」
「他人を部屋に入れるのか?」
「気分が変わるかもしれない」
「………そうかもな」
俺まで、穏やかな声で応じた。
アクアリウムは処分した。
延命のコードを入れろ。
魚はもう駄目だな。
どうして、魚だけでも逃がしてやらなかった?
「魚がいなくなったら、十四郎が傷つくだろうな」
「俺が悪いって謝るよ」
それでお前は言うのか。
穏やかな声で、哀しげに、戻らないもののことを呟いて甘えて。
そうしたら、きっと十四郎はお前を責めない。
パンドラにかけた鍵は、開かれる。
出来ることなんて何も無い。
願うだけだ。
無様に。
恋をすればみんなそんなもんだよな。
追いすがって願うだけ。
俺の…俺達のパンドラ。
頼むからその箱を開けないでくれ。
そんな風にな。
back
違和感が、ある。
優しいだけの男ではないことくらい、すぐにわかった。
秘密を持つ男だということも、じきにわかった。
肌が触れ合うたびに、本能が警戒音を鳴らす。
鈍磨した感覚でもはっきりと。
傷の癒えた身体に齎されたのはおそらく幻視痛。
まどろみと甘い愛撫に流された後は、身体の制御は煩わしい。
それでも、覚束ない体は聴覚だけを鋭敏にする。
ドアの向こうで酷い音がした。
破裂音に似た、酷い音。
ドア。
そうだ、ドアの向こう。
開けてしまえば、何もかもが終わる。
あるいは何もかもがわかる。
すべてが取り返しのつかないところまできているとしても、
開けなければならないドアもある。
いつも思考はここで立ち止まる。
優しさは俺の脆弱な精神に揺さぶりをかける。
一つだけ確かなことは、ここは閉じられていて、思考の余地がないということ。
訊ねる言葉をまだ持たない。
世界を自分で破壊するには理由が必要だ。
まばゆい光と、優しい声と抱擁と、甘い夢のような空間のせいで大事な思考が逃げていく。
死んだままの記憶は帰ってこない。
いつも考えている。
ここから出れば、あるいは分かるのかもしれない。
一体どちらを。
どちらを愛しているのか。
愛して、いる。
いや………