「記憶というのは箱のようなものだね」
医者は微笑む。
「無数の箱が頭の中にあるのをイメージしてみて。
必要があると、私達はその箱の蓋をひらく。これが思い出すということ。勿論何かきっかけがあっても、箱の蓋は開く」
覚えがあるかい?と聞かれ土方が頷く。
銀時が言う。
「確かに、何かの拍子に思い出すことってあるよね。俺さ、線香の匂い嗅ぐと、昔住んでた家の大家のババア思い出すもん」
「そうだね、匂いは記憶と相性がいい。その他にも、母校に行けば学生時代を思い出すだろう?
場所と記憶は密接に関係している」
土方が瞬きをした。
「貴方の箱の一部はいま、閉じてしまっているだけなんだ。ちゃんと、貴方の中に存在している」
医者はまた微笑む。
幼いこどものように素直に土方は頷く。
土方が運ばれた病院の外科医の古い友人だといったその医者は、親切で穏やかだった。
「失くした、わけじゃねェんだよな……」
ぽつりと呟いた土方に、やはり医者はやさしく頷く。
「ああ、だから何かの拍子に思い出すことだってある」
「俺は俺の意思で箱を開けない……」
「私達はみんな、大抵そうだよ」
医者は朗らかな声を出し、土方の手をそっと撫でた。
「だからあなたは毎日を大事に過ごしていれば良いんだ。焦ったり、悲しんだりしないで元気にね」
出張診療が終わると、医者と土方たちは軽くコーヒーを飲んで、次回の日取りを決める。
医者は土方を気に入っているのか、いつも優しい笑みを絶やさない。
外科医もそうだった。
何となく、ほおって置けないタイプなんだろう。
「パンドラの箱の話を知っているかい」
雑談に混じって、医者は土方に語りかけた。
「聖書の」
「ああ、完璧だった世界はパンドラの開いた箱の中から飛び出した災いによって、混沌としたものになってしまった」
土方が頷く。
「でも箱の中にはただひとつ希望だけが残っている。
だから我々はどんなに悲惨なめにあったとしても、希望を持つことだけは赦されているんだと」
やや、恍惚とした声に土方は静かに返す。
「先生はクリスチャンですか?」
「ルーテル派だね。でもさっきの話は別に教義でもなんでもなくて、真理だと思っているよ」
コーヒーを飲むと医者は土方にまた笑いかけた。
「箱がある限りはね、その中には必ず希望が詰まっているってことさ。だからたとえ蓋が開かなくても、君は大丈夫」
医者は言い聞かせるように穏やかに言った。
目覚めたときにはベッドの上だった。
白いリネンの溢れた空間で、白い服を着た人間が動いていた。
それから。
眩い金色と、銀色が俺の視界にあふれた。
白一色の世界にあって、そのふたつの色は暴力的なまでに輝いて俺の思考を捕えた。
「ああ、よかった…俺達がわかる?」
金色と銀色はほぼ同時にそう言った。
瞬きをしても消えない光に俺は暫く言葉が蘇らなかった。
後でわかったことだが、このとき既に。
俺は、ほぼ1年分の記憶を何処かに落としてしまっていた。
ふたりが誰なのか、俺にはわからなかった。
ふたりは落胆を隠して明るく振る舞って、無理に思い出さなくて良いと言ってくれた。
最近知り合った友人だ、と。
何があったのか、何故あんな場所に倒れていたのかはわからない。
今もわからないままだ。
それでも外傷は直に治り、精密検査を経て退院の許可が下りた。
失くした1年分の記憶は戻らない。
ふたりは毎日交代で俺のところに来て、俺のために何かと面倒を見てくれた。
それから。
退院する前日の夜、ふたりは俺に信じられないことを言った。
「俺達は、君の恋人なんだ」
そのときほど驚いたことはなかった。
ふたりはそのとき俺の両手を片方ずつ、確かな力で握っていた。
体温が伝わって俺は混乱した。
失くした1年の間に俺はどうやら恋人を得ていたようだ。
それもふたりも。
どちらも男。
誓って俺の過去には男の恋人は居なかった。
正確には記憶のある過去には、だが。
遠慮がちに告げられた言葉は、俺の混乱を配慮してだろう。
信じられない、と言うにはふたりはあまりにも真剣だった。
指先は嘘をつかない。
毎日見舞いに来てくれたのも、細かな手続きをしてくれたのもこのふたりだ。
発見時には財布も無く、無一文に等しかった俺の入院費だってふたりが出してくれた。
良くしてくれるふたりに、勿論俺だって好意を抱き始めていた。
良い友人を得たのか、って。
それが恋人だったと言われて、正直混乱した。
聞けば、俺がふたりの恋人になってまだそんなに経っていない、
むしろ、ふたりの告白を受け入れて、やっと同居が決まって、荷物を運んで、
俺がいなくなったのはその矢先だったそうだ。
殆ど一目ぼれで、これからたくさんのことを知っていこうと決めていた、
だからふたりにも俺の交友関係や、俺の失くした1年分がどんなものであったのかはわからないそうだ。
俺を見つけたのは偶然、だが運命だと銀時は言った。
この辺りで一番大きな病院に運ばれていたのは幸運だったのだろう。
突然、いなくなった俺。
ふたりはどれだけ俺を心配し、手を尽くして探したか、俺を責めない程度に必死で言った。
今これが。
愛情なのかといわれれば、わからない、としか言えない。
一年前に住んでいた家にはもう違う人間が住んでいた。
確かに俺は、どうやら一年の間にこのふたりと同居するつもりだったようだ。
二人と一緒の写真の一枚でもあれば良かったのだが、俺はあいにくあまり写真が好きじゃない。
付き合ってた女にせがまれて写ることはあったが、自分で進んでなんてことは一度もない。
数年前に付き合った、カメラマンをしていた女に、引き延ばしてポスターみてェに部屋に飾られてからはますます苦手になっていたから、ふたりと写っているものが無くても仕方ない。
ふたりの家には俺の私物がきちんとあった。
3人どころか4人でも5人でも住めるような広さの部屋に驚いたが、
なんとワンフロアすべてがふたりの物だと知ったときは卒倒しそうになった。
金時の雇い主にして、銀時の旧知でもある、ホストクラブをいくつも経営するオーナーの贈り物、だそうだ。
客よけのために男同士で住むホストは多いらしい。
どうせなら赤の他人より身内の方がいいだろう。
学生時代のアルバムや、好きなCD、DVD、本に好みのブランドの服と靴。小物。
気に入りのライター。
一年前には持っていたもので、そこに無いものもあった。
捨ててしまうには、少し良心が咎めるようなもの。
尋ねる俺に、引っ越してくる間に処分しちゃったんじゃない?と金時が穏やかに言った。
なるほど俺は確かにあまり物にこだわらないから、ふたりの住処に厄介になるときに最小限に抑えたのかもしれない。
過去の女と撮った写真、贈られたもの、それらは確かにわざわざ恋人の家に持って行くものではないから、女達には申し訳ないが処分したんだろう。
我ながら最低だとは思うが。
それだけふたりに誠実でいたかったのだろうか。
記憶にある勤務先には辞表を出していた。新しい仕事が何だったのかは不明だ。
休職中だったのかもしれない。
ふたりは一目ぼれだといったが、あのふたりの生活圏と俺の生活圏がかぶることなんかあったのだろうか。
俺は歓楽街がそんなに好きではないし、二人の仕事場は俺には異世界だ。
金時はホスト、それも歌舞伎町ナンバーワンといわれる男で、雑誌や夜の街のガイド本に顔が載る
派手さだ。
銀時は探偵紛いの自営業だそうだが、元来器用なのか仕事は順調らしい。
俺には難しくてよくわからないが、別れさせ屋だとか、なにかのサクラ、とかとにかく人の生活の裏側をうまくサポートする仕事みたいだった。
結婚式の友人役や合コンのメンバーなんかに、何故サクラがいるのかはよくわからないが。
とにかく、とても俺が知り合える種類の人間ではない気がする。
男に一目ぼれって、ありかよ。
大体、仲が良いといっても、この状態を甘んじて受け入れているふたりがわからない。
同時期にふたりと付き合うなんて、不義理もいいところだ。
確かにどちらも良い男で、嫌う理由など無く、正直ふたりとも同じくらい好ましい。
俺には勿体無い。
だがそれがふたりと付き合う理由になるのだろうか。
いつから俺はそんないい加減な人間になった?
ああそもそも、何故俺がいいのか、よくわからない。
取り立てて何か優れた所があるわけでもない、普通の男だ。
それどころか今は記憶を落っことした、不安定な人間だ。
症状が進めば、もっと色々なことがわからなくなるかもしれないという不安も残る。
医者は大丈夫だと言ってくれているが、脳はブラックボックスだ。
いつ、何が起こるかわからない。
些細なショックが何年後かに影響しないとも限らない。
医者はカウンセリング紛いのことをするだけで、結局俺の記憶は戻らない。
失くしたわけじゃない、その言葉が真実なら、いつか思い出せるのだろうか。
思い出さなければ。
二人の為にも。
こんなことは間違っている。
それに……。
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