白日のアルゴラグニア
その日は雷雨。
濡れても光る銀の髪は俺をどこからも隠さない。
派手な柄の着物の裾をひらめかせて過去の匂いをまとわりつかせて悪夢が降り立つ。
悪夢は何か俺に囁いた。
雨音がやまない。
立ち尽くす俺の前で血にぬれた過去の悪夢は悪辣に笑いながら
まだ息のあるみじめな躯に容赦なく死の鎌を振り下ろす。
雨音にすらまぎれねェ断末魔の声を聞いた。
何かがのそりと顔をあげ俺の心臓を瞬く間に食い荒らし、俺はすべて失った。
雨音がやまない。
雷鳴が鳴り響く中で、もう既に何もかもを忘れたように俺は哂った。
その日から雨音がやまないんだ。
銀さんの様子がおかしい。
ここ数日の銀さんは急にうろうろと歩き出したかと思えばじっと黙ったまま一点を見つめている。
かと思えば。
「……なぁ、新八」
「なんですか」
「一昨日、俺何処で何してた?」
銀さんはいつもの死んだ目をして聞いてくる。
「しっかりしてくださいよ銀さん。アンタ昨日の朝にべろべろに酔って帰ってきたじゃないですか。
どうせ夜からその辺で長谷川さんとでも飲んできたんでしょ。だらしない」
「そうだっけ?」
「もうお酒はほどほどにしてくださいよ」
「へいへい」
銀さんは頭をかきながら
「ジャンプ買ってくらぁ」
そう言って出て行ってしまった。
今のやりとり、三回目。
一昨日のことをそう簡単に忘れられるものなんだろうか。
それとも酔ってると何でも忘れるんだろうか。
なんだか最近ずっと銀さんはお酒を飲みすぎてる気がする。
流石に昼から飲んだりはしないだろうけど、心配だ。
夜に関しては一昨日を最後に飲んでないみたいだけど…そういえば昨日の銀さんは一日中おかしかった。
僕が銀さんを見たのは昨日の朝だから、一昨日の夜に何があったかまではわかんないけど、
二日酔いだって勝手に決めてたけど、やっぱり様子がおかしい気がする。
それによく上の空だ。
いや、前から人の話は聞かないひとだったけど、それとはまた違った感じだ。
神楽ちゃんが姉上と旅行に行ってて良かったかもしれない。ああみえて神楽ちゃんは銀さんを凄く心配するから。
でも、なんだろう。
うまく言えないけど。
銀さんが、僕や神楽ちゃんに何かするとかそんなことはありえないんだけど。
でも、動物が危険を察知するみたいな感じで、僕は何かが怖かった。
僕は何かが怖かったんだ。
恐れていたことが現実になった。
その知らせをきいたとき俺は真っ先にそう思った。
目の前が真っ暗になるって言うんだろうか、
腹の中がぐちゃぐちゃにかき回されてるみたいだった。
荒い運転で駆けつける間中、沖田さんは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
誰が一体誰がどうしたらいいあのひとがこんな。
そう呪詛のようにただ繰り返した。
安全な部屋で白い清潔な衣服に包まれて土方さんは静かに眠っていた。
まるでお姫様か何かみたいに静かに。
土方さんがあんまり綺麗で静かだから、
聞き及んでいた事態との落差に一瞬俺はあれはなにかの間違いなんじゃないかって、
都合の良いことを思った。
いつもの俺なら絶対に赦さない甘えた思考。
土方さんに関してだけだきっとこんな。
土方さんに関してだけは、いつもそうだ。
でもそおっと近づいてみて、土方さんの形のいい赤い唇が切れて晴れ上がっていることや、耳の先がガーゼで覆われていること、首筋にも、シーツにそっと置かれている白い腕と指先にまで、眼に痛いくらいに清潔な色の包帯が
余すところ無く巻かれているのを見てしまえば逃げられない。
打撲痕と擦過傷はその全てに包帯が巻かれているわけではなく、所々痛々しく覗いている。
縫合の痕が見られる一際大きな傷口はこのときは衣服によって隠されていた。
内臓が少し、損傷を受けていると医者は告げた。
土方さんは鎮痛剤と抗生物質の併用で深く深く眠っている。
ゆるやかな点滴のおちる静かな音が響く。
耳に痛い静寂のなかで、ウチに連絡を入れた男は引き結んでいた口元を開いた。
「一体真選組は何をしているんだね」
呆れたというよりは怒りに震えた声で。
その第一発見者は、てっきりいつも俺たちに対して世間や幕僚が向けるような侮蔑と嫌悪を見せるかと思ったのに、
明らかに静かな怒りを凝らせて俺たちを逼迫した。
詰問のような口調のわりに、答えは求めていないのだと知れた。
土方さんはああ見えて意外ときちんと他人とコミュニケーションがとれる。
あの人みたいな役職についてたらまぁ当たり前のことなのかもしれないけれど、
武装警察の副長が思ったよりずっと人当たりがよく話もわかることに驚く輩も多い。
何よりあの顔。
最初は他人に冷たすぎる印象を与えてしまうあの顔。
土方さんはちょっと顔が整いすぎているから、お高く留まってるとか見下しているとか言われたりするんだけど、
本人はまったくそのつもりはない。
どっちかというとぼんやりしていて隙も多い。
あくまでプライベートでだけど。
ちょっと付き合えばすぐにわかることだ。
で、他愛無い話をしながらあの顔で少しだけ、ホントに少しだけだけど笑ってくれる。
それってやっぱ驚きだろうと思う。
俺たちは大分慣れたけど(それでもやっぱり死ぬほど慌てる)
免疫の無い人間にはかなりクルものがあるんじゃないだろうか。
懐かないとびきり綺麗な猫が、気紛れにちょっと膝にのってくれたときみたいに。
この相手も確かそのクチで、少し前にも土方さんと出かけていた。
個人的に親しくしている相手でよかったと思う。
土方さんの名誉の為には。
「…血液検査の結果はひとまずクリアだった。が、腹部と腕の裂傷が酷い…腹部の傷は臓器にまで及んでいたそうだ」
男はまるで俺たちを人殺しみたいな目で睨みながら続けた。
「彼の服は証拠品として保管してある。
付着している体液のDNA鑑定をすれば、前科があるものならば警視庁のデータベースに反応があるはずだ」
男はゆっくりと、眠る土方さんの指先に触れた。多分慈しみをこめて。
「なぜ一人で行かせた?彼は発熱していたよ。一緒に解熱剤を処方してもらってある」
かわいそうに、という言葉が発さなくても伝わる声音だ。
今日はミツバさんの命日だ。
そんなことこの人に言ったって仕方ない。
でも確かに、俺は迂闊だった。
土方さんをひとりにした。
でも土方さんは一人になることを望んでいた。
俺はいつだって土方さんの望むことは全てかなえたいから、そっとしておいてしまった。
俺はこの人に関してだけはいつもいつも!
俺の役立たず。
畜生!!
「彼を見つけたとき私がどんな気持ちだったかわかるかい」
押さえた声音はかえって静かな怒りを感じさせた。
この男も、こんな形で自分の土方さんへの想いを自覚させられるとは思ってもみなかったんだろう。
お気の毒サマ。でもそれ以上触るなその人は俺達のすべてだ。
「どれだけ無能なんだ君たちは」
男は吐き捨てるようにそう言うと、
それでも俺たちを残して部屋を出て行ってくれた。
名残惜しげに土方さんの髪と、細い指先を撫でることは忘れずに。
沖田さんと二人きりになっても、俺たちはどちらも何も言わなかった。
沖田さんは恐ろしい形相で土方さんを睨んでいる。
何に対して憤っていいのかわからないんだろう。
相変わらず痛々しくて馬鹿な人だ。
点滴の音が相変わらず規則正しく響く中で、眠る土方さんの紙のように白い頬を見つめて、
ぼんやりと思う。
俺は無能だ。
いっそ閉じ込めてしまえば良かったんだろうか。
思っても仕方ないことだけれど。
二時間前には良い気分だった。
仕事は速く片付いたし、雷雨は何時の間にか已んでいて、夜空は晴れていた。
会議の結果は芳しく、近々逢う予定の真選組の副官に、彼を喜ばせるような類の報告が出来るだろう。
雨の夜特有のしめった空気が肌に触れた。
良い気分のまま、少し外を散歩しながらふと、違和感を覚えた。
指の隙間に細い針を差し込まれたような僅かな違和感。
取り壊しの決まった雑居ビルの入り口が開け放たれていて、そこから僅かに、
時折感じる匂いがした。
足がゆっくりと入り口に向かうのを長年の勘はとめなかった。
ビルに足を踏み入れると、違和感は強く、最早確信に変わった。
一度引き返して、付き添いの部下を数人呼び、警戒を強めながら進む。
ただならぬ気配に誰も何も言わなかった。
入り込んだ薄暗い闇の中、目が慣れれば中央に何かが横たわっているのが辛うじて見えた。
携帯電話の強い光をいくつか照らした部下が、足をとめた。
暗闇に白い足が浮かび上がっている。
辿ると、ぼろきれのようになってしまった衣服がお情けのように
剥き出しの白い背にかかっている。
濃く血の匂いがした。
喧嘩か、事件か。
被害者はどうやら背の高い人のようだ。
と、血の匂いに混じって特有の鼻につく生臭さを感じた。
慌てて近づいて上着をぬぐと、ひとまず肢体を覆ってやってから跪く。
嫌な予感がしたからだ。
そっと白い頬にかかった黒い髪を持ち上げて拙い呼吸をする「被害者」の顔を確認する。
ほとんど悲鳴に近い声で、救急車ではなく私用車を持ってこさせた。
それからのことはあまりよく覚えていない。
現場の保存と、衣服の保存。
外部へ情報が漏れることを押さえ、しかし迅速に医務処理が可能な場所へ。
冷静な判断ができた自分を褒めてやりたい。
体液に塗れた黒い服はやりきれない気持ちにさせられたが、それでも手がかりにはなる。
清められて力なく横たわる肢体はしなやかでやはり美しかった。
こういうときでさえ、美しいのだ。
たとえば暴力ならば、荒事が得意な組織に身を置く者として納得もいっただろう。
が、こんなことはとても耐えられなかった。
暴力が陵辱に繋がるのは彼が美しいからだ。
目覚めた後、彼に何と言ってやれば良いか見当もつかない。
「お仕事はどうなさいますか」
「今日はキャンセルしてくれ。気分が優れない」
そんなこともわからないのか。役立たずが。
「彼」は私の表情だけで、驚くほど正確に私の心情を言い当てたのに。
毒づいてから我に返る。
ただの八つ当たりだ。
だが何に対して怒っていいのかわからないのだから仕方がないともいえた。
彼を汚した何者か。
それはおそらく不特定多数の悪意という最も厄介でおぞましいものだからだ。